小説「楫取素彦物語」第187回
この声は、郭の女たちにも届いていた。格子にすがって演説の中味を聞き取ろうとする女郎の姿も見えた。演説を囲む人々の中には「ときのこえ」を求めて懐にしまい込む人もいた。群衆の中には一見して目つきの悪い男たちがいた。郭で雇われている用心棒たちであった。
救世軍のこのような行動は人々の目にいかにも珍妙なものに映った。しかし、次第にひやかしではない、売名でもないことが伝わるようになる。各地の救出の例も耳に入る。このままだと大変なことになると感じた郭の楼主たちは、彼らなりに自衛策を話し合った。
ある時、救世軍の一隊を数十人のごろつきが襲った。旗は折られ、ラッパは曲げられ、太鼓は破られ、隊士たちは殴られ、蹴られ、重軽傷者が出た。
この事件は新聞社にとっては、この上なく面白い取材の対象であった。
警察署で署長が尋ねた。
「君たちは傷害の告訴をするかね」
「いや、私たちが相手にするのはこの人たちではありませんから、告訴する理由はありません」
きっぱりと救世軍の隊士は答えた。救世軍の大義の前に、こんな暴漢はとるに足らないゴミであった。警察署長には理解できなかったが、記者たちには救世軍が大きな目的のために戦っていることが伝わった。新聞は社会正義の立場から大々的に報じた。
また、ある時、救世軍の山室軍平たちはモルフィと会議を開いた。モルフィが言った。
「救出活動を進める上で最も大切なことは、女郎の自覚です。自由廃業を決めるのは営業主の女郎なのですから。しかし、自由廃業が出来るということをまだまだほとんどの女郎が知りません。楼主は女郎の無知を悪用している。国も警察も楼主と一体となって女郎を騙している。明治五年の太政官布告の精神、それを受け継いだ民法九十条が踏みにじられています。これを放置している政治家の責任は重大です。貴族院議員の楫取様が嘆いていた通りです」
※土日祝日は、中村紀雄著【小説・楫取素彦】を連載しています。