小説「楫取素彦物語」第174回
モルフィ穂積博士と会う
待ちに待ったモルフィの元に楫取からの連絡が届いた。東京帝国大学で会うというのだ。モルフィは、神に感謝し良い成果が得られるようにと手を合わせて祈った。
「アメリカ人宣教師のモルフィと申します」
「楫取さんから紹介状をいただきました。外国人で廃娼に尽くされておるとは殊勝なことです。群馬の廃娼の責任者は楫取さんです。ご自分が播かれた種を、日本人が疎かにしているというのに外国人が真剣になっていると言って大変感謝してられます。私に出来ることは協力いたしましょう」
「ありがとうございます。私は遊郭の女たちを見るのが耐えられません。同じ人間です。神は許しません。私は救済の手段を考えて悩みました。アメリカならとっくに訴訟になっています。日本で訴訟は一般的ではありませんが、それだけに、勝訴した時の効果は大きいと思います。三権の一角を占める司法の意思が示されるのですから。訴訟を始める場合の論理のポイントについて御示唆いただければと思います」
「伝道師だけあって、日本語が巧みなのに驚きます。日本の法律論もご理解いただけそうなので安心してお話しいたしましょう」
穂積陳重は書棚から一冊を取り出し開いて一点を指で差して言った。
「これは、明治五年の太政官布告第二九五号です。日本の人権規定の原点です。娼妓契約という、人間を奴隷的に扱う契約の効果を否定したものです。これは非常に重要な法律であるにも関わらず、骨抜きにされ、守られなかったことは残念でありました」
モルフィは、メモをとりながら一言も聞きもらすまいと耳を傾けた。
「世界の文明国に仲間入りしたにも関わらず、文明国の基本である法治主義が行われないというのですから世界に対して恥ずべきことでした。例のマリア・ルーズ号事件の最中に出したことは世界に対する人権尊重の宣言を意味したのに、守らなかったと言われても仕方がありません」
モルフィは大きく頷いた。
※土日祝日は、中村紀雄著【小説・楫取素彦】を連載しています。