小説「楫取素彦物語」第138回
武太夫の決断
楫取が布達した期限を待たずに廃娼を実行したところがあった。天下の名湯、伊香保温泉を抱える伊香保町であった。その中心人物が伊香保温泉の名家、木暮旅館の木暮武太夫であった。福沢諭吉の家僕として住み込みながら慶応義塾に学んだ人である。
「眺望絶佳、泉質最良で天下の文人墨客が集うところが遊郭のため目を覆う醜状になっていることは許せません。温泉地は閑雅幽静であるべきなのに夜遅くまで唱歌弾弦止むことがない。開け広げて男女が抱き合い、遊女は裸で踊り、甚しきは襖を開け男女一つになって寝て恥じるところがないのです。最近は外人も多く、この醜状を冷笑しています。国辱の至りではありませんか。この地の隆盛を望むなら、皆さん、この醜状から脱却しなければなりません」
武太夫はこのように強く訴えた。
群馬県会で廃娼の動きは進んでいるが一刻も待てない。武太夫は、明治十五年二月七日、内務省衛生局長に廃娼の建議を出した。伊香保には政府の要人が多く訪れていたからその人脈も生かした。政府の名だたる要人も伊香保の醜状には眉をひそめていたからすぐに協力を得られた。
伊香保の建議は認められ、明治十六年六月を限って伊香保の公娼を廃止する旨が長官名で下された。
政府は、楫取の布達を踏まえ、楫取と連携して、伊香保における早期実施を断行したのだ。
前年、楫取はベルツ博士を伊香保に招いた。これにはベルツの優れた温泉政策の狙いがあった。ベルツの高い評価と証言によって伊香保温泉が一段と高い名声を博することを夢見ていた。
ある日、ベルツ博士が県令と共に街を散歩していた。人々は、あれが有名な異人さんだと物珍しげに見た。
※土日祝日は、中村紀雄著【小説・楫取素彦】を連載しています。