小説「楫取素彦物語」第89回
「吉田松陰が描いた夢が近づきつつあると伝えよと申されました」
「ほほう、幻馬殿がそのように。松陰の魅力に引かれたといわれたことが思い出される。ありがたいことだ。この伊之助、松陰の死を決して無駄にはしません。また、幻馬殿の熱い心も決して無駄にはしない、この伊之助がかよう申していたと幻馬殿にお伝えくださいませ」
「はい、お綱、しかと伝えます。お綱、女の身で、身に余る大役を果すことが出来ました。こんな嬉しいことはございません。伊之助様、危険があふれている火の中でございます。十分用心されて、お仕事に励んでください」
お綱は入ってきた時より丁寧に頭を下げ去って行った。小さな部屋に女人の香が微かに漂っていた。一陣の涼風が去り、我に返った伊之助は再び厳しい現実に立たされた。
老中小笠原長道は、怒りをあらわにし、声を震わせて言った。
「宍戸備後助と小田村伊之助には不審の廉あり拘禁せよ」
二人の拘禁が伝わると藩内に怒りの炎が広がった。
「使者を拘禁するとは何ごとだ。戦の作法に反するではないか」
幕府の卑劣な行為に対して長州藩内では打倒幕府に火がついた。
伊之助にとって二度目の入獄であった。
(やけになっている幕府が何をするか分からない)
異様な雰囲気の中で、伊之助は今度こそはと死を覚悟した。
※土日祝日は中村紀雄著「小説 楫取素彦」を連載しています。