小説「楫取素彦物語」第56回
「お寿、お前の役割は非常に重要だぞ。わたしの分身と思って伊之助殿を支えてくれ。やがて来る世の中は、戦いの世ではなく学問の時代となるだろう。伊之助殿のような人物が世の中を支える時代なのだ。しかと頼んだぞ」
「お兄さま寿は…」
寿は何も言えなかった。言葉に出さなくても万感の思いは妹から兄に、そして兄から妹に伝わっていた。鶏の声がする。うっすらと夜が明け始めていた。
留魂録
松陰は、安政六年、五月二十五日萩を発って江戸へ向った。萩城下を出た松陰の駕籠は涙松と呼ばれている老松の下で小休止した。
「これが萩の見納めとなるからどうか見せて欲しい」
松陰が役人に頼むと、聞き入れられた。
松陰は駕籠の戸を開け雨で霞む城下をしばらく眺めた。
「帰らじと思ひ定めし旅なればひとしほぬるる涙松かな」
声に出して詠む松陰の瞳にうっすらと光るものがあった。がすぐにきりっとした顔をあげると、
「さあ、まいりましょう」
六月二十四日江戸に着く。七月九日、幕吏の訊問を受ける。容疑は大したことではなかったが、思わず口を滑らしたことが命取りになる。それは老中間部の襲撃計画である。
「上洛中の老中・間部詮勝が朝廷を悩ましているのを聞き、駆け上がり、詰問しようと計画したのみ」
「詰問というが、老中が聞き入れなければ切り殺す意図があったであろう」
取調べの奉行は厳しく迫った。かくして幕閣の要人暗殺計画という事に発展してしまう。
※土日祝日は中村紀雄著「小説 楫取素彦」を連載しています。