人生意気に感ず「前橋大空襲。日本破局へ。鈴木貫太郎登場」
◇8月に入った。例年のように終戦記念日が近づく。今年は終戦から70年だから、あの年に生まれた人も70歳となる。戦争を知らない世代が世の中の大部分を占めるようになったことがこのことからも分かる。私は昭和15年10月30日生まれだから「玉音放送」の日は満4歳であった。幼い私には何も分からなかったが、後年振り返って、当時のことは紛れもなく戦争体験だったと思う。幼時の体験は振り返ってその意味が分かるものなのだ。今、きな臭い社会になって、戦争体験者の責任を感じるようになった。歴史は繰り返す。漫然それを許してはならない。
◇昭和20年8月5日の夜、母に手を引きずられるようにして、東照宮のあたりの前橋公園を横切っていた。もの凄く眠かった。半ば眠っている私に母は言った。「あれをごらん。逃げないと皆焼かれて死ぬんだよ」振り返ると東の空は真っ赤であった。おぼろな目に紙芝居の大魔王が迫っている恐怖を感じた。当時、今の幸の池に面した崖に大きな防空壕が並んでおり、私たちはその中で息を潜めた。
記録によれば、この夜の前橋の大空襲は約2時間に及び、死者は535人に達し、街の大半は廃墟と化した。
◇改めて歴史を辿りたい。太平洋戦争突入は私が生まれた翌年、昭和16年末。東条英樹内閣の成立はこの年10月18日で、この内閣の下で12月8日、真珠湾空襲、対米英宣戦布告がなされた。孫子の兵法は教える。「敵を知り己を知らば百戦危うからず」と。この戦は敵を知らず己を知らずであった。緒戦の勝利は長く続かず体勢を立て直した米軍は反撃に転じ、昭和17年後半にはミッドウェーの海戦で敗れ、ガダルカナルの戦でも壊滅的敗北を喫した。本土が初めて空襲に晒されたのは17年4月18日で、東京、名古屋、神戸が襲われた。首都が攻撃されたことは正に衝撃。昭和18年連合艦隊司令長官山本五十六がソロモン上空で戦死。昭和19年7月18日東条内閣は遂に総辞職した。日本にとって運命の時は近づいていた。昭和20年4月7日鈴木貫太郎内閣が誕生。この内閣は8月15日までである。この間およそ4カ月、内閣の重要さは長さではない。鈴木は死を覚悟して組閣を引き受けた。8月6日広島に原爆、8日ソ連宣戦、9日長崎に原爆、14日ポツダム宣言受諾、15日天皇の終戦放送。18日、内務省は地方長官に占領軍向け性的慰安施設設置を指令。最悪の事態を覚悟したのだ。(読者に感謝)