人生意気に感ず「敗戦の年の県議。私の戦争体験」 | 中村紀雄オフィシャルブログ 「元 県会議員日記・人生フル回転」Powered by Ameba

人生意気に感ず「敗戦の年の県議。私の戦争体験」

◇70年前の敗戦の日が近づく。4歳の私は、県庁近くで緊迫の日々を過ごしていた。昭和20年8月5日の夜、前橋市はB29の猛爆撃に晒され、535名の死者を出した。カトリック教会が建つ南北の通りを境にしてそれより東は一夜にして廃墟に帰した。

◇15日正午の玉音放送によって社会は一変した。この年の群馬県議会は11月に開かれ議長は菅谷勘三郎。次に紹介する彼の開会の辞は突き落とされたどん底から立ち上がろうとする県民の声であった。「我等日本国民は支那事変より引き続き大東亜戦争に至る迄の8年間、必死の信念を堅持してあらゆる困苦欠ぼうに耐え忍び、国家の総力を挙げて闘い続けました。しかし、一億敢闘も空しく、大御心にそい奉ることあたわず敗戦の屈辱を見るに至ったことは、まことに悲憤こうがいの至りであります。今後、日本民族の上に山積する苦難窮乏は想像以上に深刻であろうことは、恐らく戦時中に数倍、数十倍することと存ぜられます。しかし、いかなる事態に立ち至っても苦難を突破しいばらの道を切り拓き民族永遠の発展を企図せねばなりません。通常県会の招集に当たり各位と共に更に覚悟を新たにし県当局とこん然一体となり、戦後県民生活の安定にまい進せねばなりません」

◇支那事変とは昭和12年に始まった日中戦争のことであり、大東亜戦争とは昭和16年12月に始まった太平洋戦争のことである。今後の苦難窮乏は戦時中の数倍、数十倍だろうと言っているが、多くの庶民は現実のこととしてこれを恐れた。私の父は大変な食糧難と進駐軍への恐怖から赤城の山奥に開墾生活に入ることになった。掘立小屋とランプの生活が懐かしい。昭和22年宮城村の小学校に入学。前年公布の新憲法の下で編集された国語の教科書は新生の民主主義を反映させて従来の内容を一変させるものであった。

「おはなをかざる みんないいこ。きれいなことば みんないいこ。なかよしこよし みんないいこ」これが教科書冒頭の詩である。すし詰の教室で声を合わせた。外ではサトウ八ロー作詞の「リンゴの歌」が並木路子の声でいたる所流れていた。今年同窓会に出たら、誰それに弁当を食われたと話している声が聞こえた。物はないが私たちは元気で社会にも活力があった。あの一つ一つの場面が私の戦争体験であった。(読者に感謝)