小説「楫取素彦物語」第20回
黒船が去って間もない時、松陰は佐久間塾で象山と向き会っていた。
「お前はあの黒船を見てどう思ったか聞かせてみよ」
「先生、残念ながらまともに向かっては歯がたちません。風がなくとも蒸気で自在に動き、厚い鋼鉄は簡単には打ち破れません。そして、備えた巨砲は数十里にとどきます」
「そんなことは分かっておる。お前の策をたずねておるのだ」
「策はあります。我が兵法によれば、夜陰に乗じ柴や木を積んだ多くの小舟で取り囲み火戦を仕かけるのです。また、敵を陸地に誘い込めば地の理を知り尽くした我が方が有利ですから勝機はあると信じます」
「たわけ者め、そんな小手先のことで勝てる相手ではない。あのアヘン戦争を見よ、イギリスの戦力は船の大砲だけではない。上陸した時に示した圧倒的な火力とそれを使う組織力だ。それに本当に戦うとなれば、アメリカだけではなくなるだろう。お前のいうような三国志の世界とは違うのだ」
象山の指摘することは松陰にもよくわかることであった。ただ、当面の策としては他に妙案がないのが松陰が突き当たっている壁に他ならない。
「先生、いかがいたしたらよろしいでしょうか」
松陰が尋ねる。
「当面は条約を結んで和を保ち時間を稼ぐしかない。その間に学び、外国に対抗できる国力を養うのだ」
「そのためには百聞は一見にしかず。現地に潜入する必要がありますね」
「百難に耐える力がなければその役目は果たせぬ。黒船の好機をお前一つ活かして見ぬか」
※土日祝日は中村紀雄著「小説 楫取素彦」を連載しています。