人生意気に感ず「機上より」 | 中村紀雄オフィシャルブログ 「元 県会議員日記・人生フル回転」Powered by Ameba

人生意気に感ず「機上より」

4月15日午前10時50分、前橋駅から高速バス・アザレア号に乗る。桜井監督は既に待っていた。手を振って見送るのは、ゆりと香織さん。振り返って2人が見えなくなった時、人生の転機が現実になったことをずしりと感じた。

 目的地はテキサスのヒューストン。映画「楫取素彦物語」の受賞式に出る。県議選の直後に、人生の次なる舞台を求めてテキサスに向かうとは何とタイミングがよいことか。

 テキサスは、私の心では西部劇の世界である。私の胸には、人生の荒野に向かうガンマンの思いがある。OK牧場の決闘、アラモ、赤い河、リオブラボー、ジャイアンツなどテキサスを舞台にした映画の場面が目に浮かぶ。テキサスには大油田地帯が広がる。油田といえば映画ジャイアンツ。ロックハドスン、エリザベステーラー、ジェームスディーンが競演した。ひたすら油井を掘るディーン。ある時、真っ黒な原油が勢いよく噴き上げた。両手を広げてそれを受けるディーン。喜びの顔が真っ黒に。あの光景が目蓋に焼き付いている。

 ユナイテッド航空、成田発ヒューストン直行便は15日、午後動き出した。25分遅れ、フライト時間はどの位か。「ハウ ロング フライト タイム」と尋ねると、「イレブン トゥエンティ ワン ミニット」とアメリカ人のスチュワーデスは答えた。ニコリともしない。私が初めて使った英語。<うーん、11時間とは長い>、この文を綴りながら思った。

 太平洋を超えるのは数度に及ぶであろうか。プライベートでは初めてのこと。長いフライト時間に備えて何冊かの本を持ち込んだ。その一つが鈴木貫太郎。今、手元にあるのは、1997年(平成9年)6月に出された第一刷で若宮4丁目の小野沢章一さんから贈られたもの。小野沢さんは生真面目、几帳面なクリスチャンで熱心な私の支援者だった。過去形なのは、病に倒れ、人を認識できないような状態におられるからだ。本の中には、この人の性格をあらわす赤い字の細かな書き込みがある。

―1000m、凄く機体が揺れる―

 年譜では鈴木は昭和23年(1948)にこの世を去っているから、死後およそ50年を経て出版されたのか。読む前に鈴木について私の胸に立ち上がることは、明治10年に前橋の桃井小学校に転入したこと、その後、前橋高校の前身の前橋中学で学び海軍兵学校に進んだこと、そして、日露戦争での活躍、太平洋戦争の終戦処理などだ。

―機内サービスが食事を運んできた。黒い肌の女性。日本の女性のような笑顔はない。これなら将来ロボットが替わってもよいと思うー

アメリカへ向かう機上の故か。南米へ行った時に出た鈴木の話を思い出す。平成17年、アルゼンチンで日本人大使との対面で鈴木貫太郎の話が出た。日本がアルゼンチンから最新鋭の軍艦2隻を譲り受け、鈴木がそれをイタリアから日本に運び、この2隻が日本海戦で大活躍した話である。

しばらく寝た。目を覚ますと、午後10時20分。5時間20分のフライト。目の前のフライトマップに航跡が描かれている。北太平洋、アラスカの南、外気はマイナス63度。まだ6時間もある。太平洋は広い。

「鈴木貫太郎」に目を移す。「明治十年に前橋に移住して桃井小学校に入学した。父は千葉県と群馬県の両方から招かれたが群馬県の方が教育が進歩しており評判が高かったので子どもの教育のためを思い前橋に転居した」と鈴木は語る。明治10年入学という事実は重要である。明治9年、現在の形の群馬県が成立し、楫取素彦は県令として赴任した。前身県の熊谷県の時代を考えれば明治7年から楫取は上州の行政を指導していた。楫取は教育と新産業で任地を興そうと決意していた。吉田松陰の義弟で松下村塾にも深く関わった楫取が県令として教育に力を入れたことは天下に響いていた。鈴木が述べる「群馬県の方が教育が進歩し評判が高かった」という表現は、このことを物語る。

―フライトマップを見る。機はアラスカ湾の南を進み北米大陸に近づきつつあるー

 鈴木は小学校時代を振り返る。県庁へ向かう父、小学校へ登校する鈴木。二人は連れ立って歩いた。父が語った。「人間は怒るものではないよ。怒るのは根性が足りないからだ。短期は損気。怒ってすることは成功しない」と。鈴木は父のこの言葉が今日に至るまで強く胸に食い込んで離れない。この一語が私の将来の修養の上でどんなに役立ったか知れないと語る。その頃、鈴木はいじめられていた。他藩の者なので万事についてよそ者扱いされ、軽蔑してからかわれた。途中待ち伏せしておどされ喧嘩をふっかけられたりもした。その時、父の戒めを守って耐え、今に見ろと頑張った。そして、2・3年後になると皆仲良しになって、一緒に勉強するようになり本を読み合い、遊びにも行き来するようになったという。そして、「今になっても私の友だちは前橋の人たちが一番懐かしく、またよく覚えている」と振り返っている。

―私の時計で今11時半。簡単な夜食が配られる。フライトマップの航跡は少しずつアメリカの西海岸に近づき、航跡の先はバンクーバーとロサンジェルスの間を走ってヒューストンに伸びている―


子を諭す父、いじめに耐える鈴木少年の姿は、時代を超えて、今日の私たちに、特に今日の教育界に大切なことを訴えている。鈴木が卒業した桃井小学校には、「正直に腹を立てずにたゆまず励め」と鈴木の書を刻んだ石碑が立っている。昔の生徒はこれに節をつけて歌った。その後、中断したが最近は復活されていると聞く。「短気は損気」を読んで胸に刺さることがある。12日の夜、私はM氏を激怒した。「殴れ」、「お前など殴る価値がない」、振り向かない決意で飛び立ったが機上で、あの光景が甦る。私の腹は鈴木少年に比べて小さい。

日本時間で午前0時になった。窓のすき間から朝日が見える。外気はマイナス79度。近くの席で、2、3歳位のお人形のような女の子がしきりに英語を話している。きれいな発音。当たり前のことなのだが、時々感心して聞き耳を立てる。この旅の友として「鈴木貫太郎自伝」を選んだことは正解だった。歴史的背景と共に、骨太な大きな生き方が私を勇気づける。

 父は医者にしたかったが、鈴木は海軍兵学校を強く望んだ。父の許しが出ない。受かる筈がないと回りから言われた。遂に許しが出て受験、一回でパス。関東からは唯一人だった。当時、陸運は長州、海軍は薩州という感があった。海軍兵学校を支えたのはイギリス人だった。イギリスは立派な海軍軍人を派遣し、彼らは見下すようなことなく、実に誠実に接したと鈴木は振り返える。見識ある英国紳士、優秀な日本の若者を評価し敬意を払ったに違いない。幕末のイギリス人外交官・アーネストサトウは、高杉晋作等と激しく渡り合った人物であるが、「日本人が好きになった」と語った。鈴木を読んで今、そのことを思い出す。鈴木の海軍兵学校の先に、日英同盟があり、「日進」、「春日」を回航する鈴木を助けたイギリス海軍の姿がある。太平洋戦争の敗因の一つは、イギリスとたもとを分かち、ドイツと組んだ事にある。

 海軍兵学校と言えば、前田洋文先生を思い出す。今回の県議選で、大胡町養林寺の演説会に、前田先生は奥様と出席された。90歳に近いと思われるが毅然とした姿勢、まなざしは昔と変わっておられない。私との出会いは、前高の定時制の教室であった。先生は江田島の兵学校を出て終戦を迎え、重労働の仕事をしながら東大の英文科に入られた。前高の英語の教師となり、夜間部にも教えに来られていたのである。血気の少年だった私はこの人の語ることに大いに動かされた。定時制からの東大受験については、大いに影響を受けている。あの時、山崎貞一の「英文解釈の研究」の長い文章を質問したら、黒板に書き写して即座に見事に解説された。あの時の事を良く覚えている。また、英語のリーダーの中に、ペイトリアーカルという難解な語があった。先生は語源に逆らって詳しく説明された。私は、先生の英語力の深さの背景には海軍兵学校があるに違いないとその時思ったのである。


―アメリカ上空に入った―


鈴木貫太郎から、前田洋文先生へと筆を進める中で、私の心に又、エネルギーが満ちてきた。テキサスに近づいている。西部劇の世界はどのように変化し、私はそこで何を見るか。フライトマップは、機がネバダ州の上空に近いことを示す。ネバダ、ユタ、コロラド、ニューメキシコを経てテキサスである。

 現地時間、午前2時1分。外は見えない。マップでは機はユタ州に入った。コロラドの南西の角をかすめ、ニューメキシコを過ぎればテキサスだ。外が見える窓に近づく。雲の合間に乾いた茶色の山地広がる。所々に豆粒のような家が見える。褐色の大地、砂じんを巻き上げて走る馬、インディアンの世界を想像した。いよいよテキサス上空に入った。機内のアナウンスは55分程でヒューストンと伝える。11時間のフライトは長かった。(読者に感謝)