人生意気に感ず「明倫と椿東で講演、歓迎会に市長も。高倉健の死」 | 中村紀雄オフィシャルブログ 「元 県会議員日記・人生フル回転」Powered by Ameba

人生意気に感ず「明倫と椿東で講演、歓迎会に市長も。高倉健の死」

◇昨日、午前は明倫、午後は椿東の両小学校で「楫取素彦と吉田松陰」に関して講演をした。いずれも5、6年生が対象で体育館は一般の人も参加して大変盛況であった。

 私は次のように語り出した。「日本人が元気を失っています。風船がしぼむように日本が力を失っています。今こそ、松陰先生や楫取に学ぶべきです。今朝6時に松陰神社まで走りました。暗い中、松下村塾は既に戸が開けられていました。ああ、ここで松陰先生が激しく論じ、楫取素彦も教えたのかと思うと感動しました」

 松陰が果たせなかった夢を楫取は群馬で実現しようとし生糸の新産業と教育で頑張ったことを話した。2つの学校の特色は活気があることである。話の中で質問を投げると、「鎖国」、「禁門の変」、「久坂玄瑞」、「ふみ」、「ひさ」などという元気のよい声があちこちで上がった。群馬では見られない光景である。

◇夜の歓迎会には野村市長、明倫・椿東の校長も出席。心温まるもてなしに私は感激した。私の隣には出版社書肆侃侃房社長田島安江さんが座った。出席者全員に私から「楫取素彦―吉田松陰が夢をたくした男」を贈呈した。この日に合わせて完成を急いだもので正に出来立たてのほやほや。昼間の両校の講演に出席した人は講演がよかったといってくれた。野村市長は椿東小出身であった。野村氏は最後まで私の向いの席で愉快そうに飲んで語った。市長との間で映画「楫取素彦物語」の上映が話し合われた。宴会場の向いにある萩市唯一の映画館で上映されることになった。野村さんは昔、母が二条窪で教えていたと語った。楫取山があり、寿が法話を主催した庵がある二条窪には今日伺う予定。宴会が苦手な私であるが時が経つのも忘れて楽しく飲んで語ることが出来た。

◇昨日に続いて萩を走った。日本海に面した三角州を背に山々に囲まれた地域である。6時半近くなると山際が白くなる。あの山と山の間が江戸に通じている、松陰が送られていった方向だと中原さんが話していた。走りながら群馬のことが気になった。

◇高倉健が83歳で亡くなった。「幸せの黄色いハンカチ」が好きだった。任侠もので好演し、私は鶴田浩二より身近なものを感じていた。福岡出身である。福岡には極道の世界がある。健さんに影響を与えていたかもしれない。(読者に感謝)

☆私の後継者、萩原ゆうじ君は慶応卒・30歳の公認会計士。知性と信頼をと意気込む。