随筆「甦る楫取素彦」第117回 | 中村紀雄オフィシャルブログ 「元 県会議員日記・人生フル回転」Powered by Ameba

随筆「甦る楫取素彦」第117回

藩・長・土・肥の4藩主から版籍奉還の建白書が新政府に提出されて受理されたのは明治2年正月だった。その目的は「朝廷が国家統治の大権を掌握すべきだから、諸藩主は速やかにその所領を返還すべき」というもの。3月末迄に全国の大部分の藩主が応じた。驚くべき速さである。上野(こうずけ)諸藩では吉井藩が早かった。即ち、3月1日、吉井藩主吉井信謹(のぶのり)、同8日前橋藩主松平直克(なおかつ)が朝廷に奉還の願書を提出し他の藩が続いた。
新政府は、版籍奉還の願いを許可し、上野9藩主を藩知事に任命し従来通りの所領を与えた。「藩主から願い出る」形をとらせ、「藩知事に任命」し、「従来の領地を与えた」点が注目される。
版籍奉還は大変な変革であった。戦国時代以来、各藩は、多くの血を流して領地を守ってきたのである。朝廷が国の大権を掌握するという大きな大義名分があるとはいえ、容易なことではなかった。奉還の文書を出さない諸藩には奉還の命令が発せられて実現された。
しかし、藩を残したまま、藩主を藩知事にした奉還は不十分であった。統一政権の実を上げるためには廃藩置県の断行が必要であった。新政府は、薩・長・土3藩からさし出された1万人の新兵をもって万一に備えた。大変な抵抗も有り得たからである。事は、世界史的にも珍しいと言われた程平穏に行われた。それは、武力で万一に備えたことと共に政府の補助をうけなければならない程財政に苦しんでいた藩が多かったこと、更に旧藩主には知行にかわる経済的保証(公債)が与えられたことによると言われた。その通りであるが、更に、天皇に対する尊崇の念が大きな意味を持ったのではないかと思う。廃藩置県は天皇の名で命令されたのである。
政府指導者の苦悩は次の大久保日記に現われている。「今日のままにして瓦解せんよりはむしろ大英断に出て瓦解したらんに如(しか)ず」(大久保利通日記、明治4年7月12日)。このまま壊れるより、廃藩置県という大英断に出て瓦解した方がいいというもの。一か八かの決意が窺える。