随筆「甦る楫取素彦」第114回 | 中村紀雄オフィシャルブログ 「元 県会議員日記・人生フル回転」Powered by Ameba

随筆「甦る楫取素彦」第114回

上州は主要な生糸産地の中で横浜に最も近かった。このことは、上州の生糸が横浜で取引され易いことを意味し、生糸の横浜への流れが強まる中で、生糸の需要は増し価格は上昇した。

この状況下、養蚕農家が生糸生産を行うようになり、かれらから生糸を買取る商人が輩出し糸商たちはこれを横浜に運んだ。この流れは加速し、上州の生糸はその圧倒的部分が海外市場に向けて生産されるようになった。

このような状況を背景に、上州はもとより、各地から生糸の輸出に関わる商人が横浜に集まった。当時、居留地貿易と言われ、生糸商人は居留地内の外国商館に生糸を売り込む形で貿易は行われた。生糸の取引をコントロールしようとする幕府の強い意向によるものであった。つまり、日本の商人が生糸を外国に直接送ることは出来なかったのである。

生糸を外国商館に持ち込む「売込商」は、34名いたと言われるが、その中で大量の売込みを行った者は17名。更にその中の主要な4人を上州の売り込み屋として、横浜市史が名を挙げる。藤屋(山田郡)、吉村屋(勢多郡)、穀屋(多胡郡)、野沢屋(群馬郡)である。

ここにはないが吾妻郡の中居屋重兵衛は横浜一の豪商と言われた。横浜開港五十年史や吾妻郡誌には、中居屋の活躍が描かれている。それによれば、開港の2ヵ月後には外国商館に生糸を売り込み、40人から50人の店員を擁し、「銅御殿」と称された豪邸に住み「浜の門跡様」といわれる豪商振りであった。嬬恋村には中居屋重兵衛の碑が建てられている。

※土日祝日は中村紀雄著「甦る楫取素彦」を連載しています。