随筆「甦る楫取素彦」第105回 | 中村紀雄オフィシャルブログ 「元 県会議員日記・人生フル回転」Powered by Ameba

随筆「甦る楫取素彦」第105回

「小栗の死」

 新政府が、群馬に新しい秩序を確立するために神経を集中させたのは小栗上野介の存在だった。稀に見る逸材と言われ陸軍奉行及び実質大蔵大臣である勘定奉行を努め、恭順か戦いかをめぐっては主戦論の急先鋒だった小栗は慶応4年(1868)、正月15日罷免されて維新後、領地があった群馬郡権田村(倉渕村)に引きあげてきた。

 小栗が住居にした東善寺は2千人を超える世直し勢の攻撃を受けた。その理由は、運上金を徴収して農民を苦しめた首謀者としての恨み、500万両もの軍資金を隠し持つうわさ等である。

 小栗は多数の世直し勢を巧みに撃退したが、その力がかえって総督府に警戒される原因となった。

 1月11日、江戸城が開城され、武器、弾薬が政府に引き渡されると、これを不満とする多くの兵士が脱走した。このような幕府の脱走兵が小栗と手を結ぶことを総督府は恐れた。

 小栗は、いわば、反政府の象徴的存在だったので、政府としては、何としてもその存在をゆるすことが出来なかった。この頃、小栗は、観音山に屋敷を建設する工事を始めた。小栗の動きを探っていた密偵は、「砦をつくり、大砲や鉄砲を多数用意し、更に多くの浪人をあつめて官軍との戦いを準備している」と報告した。これは真偽はともかく、絶好の口実となった。総督府は、高崎、安中、小幡の3藩に命じて小栗を逮捕させ烏川の河原で斬首した。時に小栗は41歳であった。

烏川で斬首される時、言い残すことはないかと訊かれた小栗は何もないと答えながらも、母と妻は越後の方に逃したが寛大に願うと言った。謝罪のため出頭した小栗の子又一も処刑したというから新政府が小栗の影響力をいかに重視していたかがうかがえる。

※土日祝日は中村紀雄著「甦る楫取素彦」を連載しています。