随筆「甦る楫取素彦」第93回 | 中村紀雄オフィシャルブログ 「元 県会議員日記・人生フル回転」Powered by Ameba

随筆「甦る楫取素彦」第93回

14年6月1日(日)

随筆「甦る楫取素彦」第93回

◇明治7年(1874)楫取素彦46歳。

7月19日、楫取は熊谷県権令(副知事)として着任した。前年に成立した熊谷県は、上野11郡、つまり現在の群馬から新田、山田、邑楽の3郡を除いた部分も含んでいたから、この年、実質的に楫取が群馬に登場したことになる。

 この年の群馬の出来事を挙げると、

本県初の洋風新校舎前橋桃井学校竣工、

俠客大前田英五郎没す、

星野長太郎、水沼製糸所の一部操業を開始、

新島襄、アメリカから帰国し郷里安中の両親を訪ね地域の人々にキリスト教を伝える。これは日本で最初のプロテスタントの伝道であった。

「新島襄」

太平洋を26日かけて航行し、およそ11年ぶりに日本の土地を踏んだのは明治7年11月26日だった。翌27日の午後東京に至り、その日の夕方には3台の人力車を雇って安中に向った。彼の心は矢も盾もたまらず懐かしい両親を目指した。安中には真夜中に着く。両親の安眠を妨げるのを避け、近くの旅宿山田屋を起こして一泊。明ければ29日、病床の父は身を起こし言葉もなくただ涙を落とした。海外の珍しい話を聴こうと、伝え聞いた多くの人が集まった。12月には、最速、説教を始めている。

 楫取は新島の動きにどう対応すべきか政府に質すと、「新島のことなら捨てておけ」と言う答えだった。前年、キリスト教は解禁になったとはいえ、それが地方に迄徹底した状況ではなかったと思われる。新政府のこの態度には、明治の政治家の大胆さと共に、新島がアメリカで岩倉等を助けられたことが背景になっていたことが窺える。この時の新島の教えによってキリスト教徒になった者の中に湯浅治郎がいた。

この年、中央では大きな動きがあった。それは、前年、征韓論に破れた板垣退助、副島種臣、後藤象二郎等が民選議員設立建白書を提出したことである。以後、国会開設等を求める自由民権運動が激しくなっていく。

※土日祝日は中村紀雄著「甦る楫取素彦」を連載しています。