随筆「甦る楫取素彦」第89回 | 中村紀雄オフィシャルブログ 「元 県会議員日記・人生フル回転」Powered by Ameba

随筆「甦る楫取素彦」第89回

◇明治5年(1872)、楫取素彦44歳。

足柄県参事となる。楫取が群馬の県令として登場する迄、あと4年、この年、後の楫取の群馬県政にも影響を及ぼす重大事件が起きた。マリア・ルーズ号事件である。私は平成8年行政視察でペルーを訪れ、移民資料館でマリア・ルーズ号事件のことが詳しく書かれているのを見て驚いたことがある。ペルーとの関係、殊に日本人ペルー移民の契機ともなった事件なのだ。

「マリア・ルーズ号事件」

 明治5年、横浜沖でペルー船籍の船が停泊し暴風でうけた損傷を修理していた。この船は何故か港内深く入ることを避けているかのようであった。ある時、一人の中国人が海に飛び込んでイギリスの軍艦に助けを求めたことからこの船が奴隷船であることが発覚した。船倉には奴隷として売られる中国人231人が繋がれていた。これを解放するか放置するかをめぐり国内でも意見が分かれた。26歳の熱血漢、神奈川県県令・大江卓は断固解放すべきとする立場であった。関わるべきでないという立場は、初めての国裁裁判に発展し難しい問題が生じるかも知れない。もし負けて賠償を請求されたら大変だ。下ノ関事件の賠償金は分割で払って、明治政府がまだ負担している。この上、賠償請求されたらどうするのか、というもの。大江の上司陸奥宗光はこの立場であったが司法卿副島種臣は大江を支持した。副島は太政大臣三条実美を動かし大江を県令に昇格させ、この奴隷船問題を外務省所管にして特別法廷を開き大江を指揮して全力を尽くすことになった。マリア・ルーズ号事件を、新政府にとって天が与えた国威宣揚の最大のチャンスととらえたのである。勿論江川の胸底には人間の平等という価値観と欧米人への激しい対抗心があった。

※土日祝日は中村紀雄著「甦る楫取素彦」を連載しています。