随筆「甦る楫取素彦」第82回 | 中村紀雄オフィシャルブログ 「元 県会議員日記・人生フル回転」Powered by Ameba

随筆「甦る楫取素彦」第82回

 江戸城に引きあげた慶喜は最後の決戦に臨むべきか大いに迷ったらしいが2月恭順を決意し上野寛永寺にこもり恭順謝罪書を提出した。この年4月江戸城は無血開城となった。これを無し遂げた西郷隆盛と勝海舟の談判は有名だがその舞台裏にはイギリス行使パークスとその片腕アーネスト・サトウの存在があった。当時。イギリス本国は日本の占領とか内政に干渉することには強く反対しており、ただ貿易の促進を強く望んでいたといわれる。そこでパークスは内乱が広がって貿易の発展に悪影響が出ることを警戒して新政府軍の江戸武力攻撃に反対した。はじめ断固江戸城攻撃を決意していた西郷はパークスの意向を知って態度を軟化させた。西郷とパークスの間に立ってあっせんにつとめた人物がアーネスト・サトウであった。そして、これが西郷と勝の会談を成功させた背景であった。このアーネスト・サトウこそ、四国連合艦隊と長州が戦って講和の話し合いを進めたときの英側の通訳であった。そして、その時の長州の代表は家老宍戸刑馬と偽った高杉晋作であった。だから当時、楫取とアーネスト・サトウも同じ激しい渦の中にあったと推測される。

①戦争が始まった慶応4年(明治元年)が干支でいうと戊辰(ぼしん)の年になるので戊辰戦争(ぼしんせんそう)とよばれた。なおこの年、3月5ヶ条の御誓文が発せられた。

薩長を中心とする新政府軍と会津、桑名を中心とする旧幕軍が衝突した島羽伏見の戦は近代国家誕生がかかったものであった。

 この状況下にあって、楫取は長州を代表して禁中に出入りし公卿や諸藩との折衝役など重要な役割を果した。10月、敬親公に従って国(長州)に帰っていることは、楫取が重要な側近中の側近であることを示す事実であった。

 楫取素彦が上州へ新天地を求める時が次第に近づいていたが、楫取が、維新政府によって上州への赴任を命ぜられるのはこの地の幕末の状況と大いに関係があると私は考える。それは「難治」の県と言われたことと関わる。後に改めて記述するが、その一端に触れれば、この年、上州一円に世直し一揆が吹きあれ、小栗上野之介が斬られ、岩鼻県初代知県事(ちけんじ)として大音龍太郎(おおどりゅうたろう)が赴任した等がある。


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