随筆「甦る楫取素彦」第78回 | 中村紀雄オフィシャルブログ 「元 県会議員日記・人生フル回転」Powered by Ameba

随筆「甦る楫取素彦」第78回

 この年群馬の出来事はというと、新島襄が箱館から出発している。松陰の「下田滔海(とうかい)」失敗から10年後である。帰国して新島の感化でキリスト教徒となった湯浅次郎が県議会で県令楫取素彦と出会うのは明治9年のことであった。

◇慶応元年(1865)、楫取37歳。明治維新まであと3年。楫取家文書によれば、「2月15日、野山獄出る、5月14日、山口を出発し三条以下5卿への内使として太宰府に赴き、坂本竜馬、中岡慎太郎と会し藩長連合を策す」とある。

 楫取が野山獄を出る迄には以下のような経緯があった。いわゆる俗論党と正義派の対立は、幕府に恭順(従うこと)を示すグループと反幕尊王派の対立で、楫取の兄松島剛蔵等を処刑した俗論党の首領は椋梨藤太(むくなしとうた)であった。正義派の高杉晋作は俗論党の処置に怒り、挙兵してこれを破り藩政を取り戻し、即日、楫取は出獄した。そして、楫取は、再び藩主の侍儒・側近として密令を帯び大宰府の三条卿等の元へ向かったというわけである。

 正義派が政権を奪還したとはいえ、表向きはひたすら恭順の態度をとり内実は密かに富国強兵、武備の充実に努めた。恭順を示すために藩士は藩外に一歩も出ないことにしていたので、楫取は塩間鉄造と変名して大宰府に赴いた。

 「楫取素彦翁談話」では、次のように、坂本竜馬との対話などが生き生きと語られている。竜馬は、楫取に、「このように薩長が反目していては天下のことが思うようにならぬ、木戸にあって話したい、ついては貴様から先に話してくれ」と言う、楫取は、「私の考えも同様で木戸も異論はないと思うが、試みに手紙を書くから返事が来るまで待て」と言って、楫取は木戸孝允に手紙を書いた。それに対して、木戸から速やかに返事が来て、「差し支えないから坂本という者に来て宜しいと言ってくれ、今、馬関に散在している各部隊の者に粗暴の事をせぬように注意しておくから心配なく来るように」とあった。「この手紙を坂本竜馬に見せて、薩長連合の端がひらけたようなものじゃ」と楫取はこのように振り返っている。

 ところで群馬の関係では、この年安中藩の新島襄が乗ったワイルドロヴァー号は、7月20日、アメリカのボストンに到着した。襄はボストン到着の直前船中で、南北戦の終結とリンカーン暗殺を知らされ驚いたことを自叙伝に書いている。ちなみに、南北戦争終結は、この年(1865)4月9日であり、リンカーンの死は、同4月14日であった。

※土日祝日は中村紀雄著「甦る楫取素彦」を連載しています。