人生意気に感ず「上海で迷う。中国人と犬。晋作日記」随筆「甦る楫取素彦」第70回 | 中村紀雄オフィシャルブログ 「元 県会議員日記・人生フル回転」Powered by Ameba

人生意気に感ず「上海で迷う。中国人と犬。晋作日記」随筆「甦る楫取素彦」第70回

◇2日目ジョギングで道に迷った。前日は走った道を引き返す単純なコースだったが、四角形を頭に描きその辺上を走った。古い路地を覗いたりしているうちに方角が分からなくなった。何度か人に尋ねて戻ることができた。上海の街は一歩入った裏通りに歴史が詰まっている。複雑な中国の実態は表の顔を見ただけでは分からない。

 この日、揚子江の支流・黄浦江の岸辺に立った。ゆっくりと船が動く流れの対岸に上海テレビ塔、頂上が栓抜きの形をした森ビルなど高層ビルが林立。私たちが立つこちら側は昔、租界地域だった。上海出身の友人郭さんが一角を指して言った。「あの当り、昔、華人と犬入るべからずと書かれていたよ」と。有名な話だが郭さんは教科書で習ったという。

 華人(中国人)と犬を同列にして立ち入りを禁じた表示が事実かどうかは分からない。しかし、この黄浦江に沿った一帯にイギリスは芝生とバラを植えた公園を作り中国人の入園を禁じたことは事実で中国人の恨みを買ったというから、犬扱いされた屈辱から「華人と犬」の話が出来たのかもしれない。

 高杉晋作日記には、このあたりを歩いた時、イギリス人やフランス人に出会うと道べりに避ける中国人の卑屈な姿を嘆いたこと、そして、弱腰外交の幕府の将来を予見しこのままでは日本が上海の二の舞になると強く感じたことが記されている。前日の歓迎会で、私が晋作と明治維新について話したのは、晋作のこの場面のことが頭にあったからである。

◇なお、晋作は上海の孔子廟がイギリスやフランス軍の陣営と化し儒教の精神が軍靴で踏みにじられていることに憤りを現わし、外国の侵略の恐ろしさを痛感している。

 私たちは、この孔子廟に、「宥座の器」を贈呈した。これは孔子が中庸の徳を教えた教材である。製作者・針生清司氏が、つり下げられた器に水を入れて実演した。八分目で正しい位置になり、全部入れると傾いて水はこぼれてしまう。私は、現代の中国も日本もこの中庸の徳を学ばねばならないと話した。

◇私は、協定調印式、孔子廟、歓迎会、いずれの席でも、明治維新及び歴史認識の重要さを語り、「楫取素彦読本」を紹介した。この本を材料にした講演を前橋、渋川、伊勢崎の全中学校で実施する計画を立て、進行中である。同時に感想文が集まっている。今回の訪中で文化の交流が友好の基盤であることを確信した。文化の交流は心の交流に他ならないからだ。



随筆「甦る楫取素彦」第70回



◇文久3年(1863)、楫取35歳。明治までのカウントダウン

は進む。あと5年。長州を包む状況は特に厳しく、楫取はその中心にいた。

 楫取家文書によれば、以下のように楫取の身に変化が起きる。1月、藩主京都発駕(出発)に付きこれに従う。萩に向ったのだ。途中より先案内として岩国に立寄る。7月、勅使出迎並に諸接待事役に任じられる。9月、側儒役からより重要な奏者格に転じ藩主の内用掛になり、藩主の直書を携えて芸州(広島県西部)に使す。この時役目を果たした楫取に藩主は自ら金一封を授けた。楫取にとって大変な名誉であった。

 藩主敬親が京から萩に下る途中、支藩岩国に立ち寄ったのは、前記のように幕府と対決するに当たっての協力の要請が目的である。楫取が直書を芸州に届けたのも同様の関係に違いない。これらの動きを見ると、楫取は、正に藩主の懐刀であった。

 この年、8月18日、京都で、長州勢を朝廷周辺から追放するという政変が起きた(8月18日の政変)。これは、禁門の変(久坂玄瑞の死)、第一次征長、楫取投獄につながる重大な事件である。

 この政変は、会津と薩摩を中心とする公武合体派が長州寄りの三条実美等7卿を京都から追放した事件である。

 知識を整理するとこうだ。幕府は、条約を結んで外国と仲良くしようとする開国和親の方針で、朝廷とも手を結ぶ公武合体の立場であったが、長州は、方針を転換して破約(条約を否定)攘夷(外国打ち払い)を打ち出した。これは王(天皇)を尊奉するから尊王攘夷である。

 この年の群馬の動きはというと、前橋町の生糸商等が前橋城再築資金1万2800両を拠出、そして、前橋藩主松平直克は、幕府により前橋城再築を許される。また、下村善太郎は、生糸商店三好屋を開業した。

※土日祝日は、中村紀雄著「甦る楫取素彦」を連載しています。