人生意気に感ず「上海事務所を視察。中国経済の行方は」、随筆「甦る楫取素彦」第68回 | 中村紀雄オフィシャルブログ 「元 県会議員日記・人生フル回転」Powered by Ameba

人生意気に感ず「上海事務所を視察。中国経済の行方は」、随筆「甦る楫取素彦」第68回

◇雨の羽田をたち、およそ3時間のフライトで上海虹橋空港に着いた。私を代表とする群馬県日中友好協会の上海視察団16名を出迎えたのは群馬県上海事務所・所長の山田浩樹氏。バスから中国最大の商業都市の動きを見る。男性ガイドは上海の人は皆日本が大変好きだと語る。私の質問に尖閣や靖国は政府の問題で関係ないと笑って答えた。政治は国任せという一党独裁下の国民の姿が窺える。林立する高層ビルと車の海が上海現代を語る。

 群馬県事務所は上海国際貿易センターの24階にあった。日本人職員2名と現地スタッフの女性1名。若い女性スタッフは日本人好みの美人である。事務所は平成25年4月1日に開かれた。日中友好協会設立とほぼ同じ時期で、日中間が険悪な状況下でのスタートだった。山田所長は、事務所の業務は、観光誘客の促進、県産品の販路拡大、県内企業のビジネス展開支援の3つですと説明した。

 もう一人の県職員は篠原氏、2人とも前橋市の人で、前高(まえたか)出身とのこと。

◇この日の大きな収穫はジェトロの上海代表・三根伸太郎氏の話から得た。長い中国の体験に基づく話は、中国の実態を内部から分析するもので有益だった。そのいくつかを以下に記す。

 三根氏は、まず、日中がかかえる共通のテーマに取り組むことが重要で、そこに日本のチャンスがあると指摘する。それは、環境、福祉、医療、防災などである。特に高齢者の福祉は一人っ子政策と結びついて深刻らしい。日本の出番があるだろう。

 このことに関し、車中から異様な光景を見た。小学校の門前の群集はこどもの帰宅を迎える親や祖父母たち。子どもは小皇帝と呼ばれて大切に扱われるのだ。この子たちに将来年老いた父母たちを支えることを期待できるのか。

 次に中国の消費者は賢くなっている。単純にブランドを求める時代ではない。個性化の時代となって、消費者は自分にとっていいものを選ぶ。車中のガイドは新しく開かれたユニクロの盛況ぶりを話していた。

 更に三根氏が市場規模について語ることはすごいと思った。日本の企業は中国のリスクを恐れて東南アジアなどに拠点を移そうとしているが、中国の規模拡大は、他国の一国に当たる位のことが一年で進む程。だから、中国は依然として最大のマーケット(市場)なのだ。

◇上海玉仏寺を訪ね、上海仏教協会会長を務める住職の覚醒師と話した。夜は、県人会幹部と食事をしながら懇談。中国に根を下ろす同郷の人の姿を見た。


随筆「甦る楫取素彦」第68回



◇文久2年(1862)・楫取34歳。井伊直弼の後、老中として合武合体を進めていた安藤信正はこの年、坂下門外の変で斬られ、命はとりとめたが政治生命は失墜。幕府は安藤を罷免したのである。この事件を機に尊王攘夷運動が激化した。朝廷内の状況も一変し、孝明天皇は攘夷の決意を明確にし、航海遠略策を退けた。長州の藩内では、楫取の義弟久坂玄瑞が長井雅楽(うた)弾劾書を提出するに至った。更に、朝廷からは、「航海遠略策」の建白書中に朝廷を誹謗する言葉があることが指摘された。尊攘派が勢いを増す情勢下で小さなことが長井の不利に働いたようだ。朝廷誹謗を朝廷から問われることは非常に重大である。藩主敬親はこの政局に応じて重大なことを議するため京に上った。この時、楫取は藩主のお側役として従った。藩の運命を決する重要な場面に楫取自身が近づいていた。「破約攘夷」という政策の大転換は、藩主が出席する長州の京都屋敷で行われた。

これは幕府の重要な政策に真向から逆らうことであった。幕府の厳しい処罰は避けられない。正に長州の存亡にかかわることであった。全ての力を結集して未曾有の難局に当らなればならなかった。長井は待罪書を出して謹慎した。藩主は長井の職を免じた。翌年、遂に長井は切腹を命ぜられた。

長井は腹を切る武士の儀式を済ませ、弓八幡の謡曲を琅々(ろうろう)と歌い見事に果てた。四五歳であった。右に左にと揺れ動く政局の中で捨てなくもよい命であった。ポーパタン号で、また咸臨丸でアメリカの実態を知った人々は、攘夷などは全くの絵空事と分かっていた筈である。数年後、正に攘夷を吹き飛ばして世界の舞台に躍り出た明治の新政府が実現する。しかし、そこに辿りつく迄にまだまだ日本国内は曲折を重ね多くの血を流さねばならなかった。



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