随筆「甦る楫取素彦」第66回 | 中村紀雄オフィシャルブログ 「元 県会議員日記・人生フル回転」Powered by Ameba

随筆「甦る楫取素彦」第66回

 和宮の降嫁もこのような状況下で行われた。それは翌年文久元年のことであった。空前絶後の大行列は中山道を選び上州安中藩を通過した。安中市の国道沿いには和宮の通過を示す木標が現在も建てられている。

 行列のために徴発・使役された人馬は膨大であった。全道の道普請が行われ、沿道の家屋の二階の窓は全て横板で閉ざされ、見苦しい民家や朽ちかけた建物はすべて取り払われた。今日の国民主権、平等の社会と比較するとき天地の差を感じる。あと6年余りで明治の新時代を迎えることを考えると、このおとぎばなしのような出来事は封建時代の最後を飾るドラマであった。

◇文久元年(1861)、楫取33歳。

ポーパタン号で幕府の使節が渡米し批准書を交わした翌年である。松陰が死して2年が経った。楫取を取り巻く情勢は激しく複雑に動いていた。長州の基本方針は攘夷であるが、それを単純に貫ける状況ではない。日本の扉は開かれ世界の大きな流れに合流しようとしていた。日本のこの新しい流れの先をポーパタン号は進み、アメリカ国民の大歓迎を受けた。しかし、日本国内のほとんどの人はこの事実を知らず、尊王攘夷だ、いや公武協調(合体)だと争っていた。

 前記のように、条約批准使節の渡米中に桜田門外の変が起き井伊大老が暗殺され、幕府は政策の方向を変えて難局を乗り切ろうとする。その手段は、朝廷と手を握ることであった。そのために皇女和宮の降嫁を進めたのである。和宮が江戸へ向ったのがこの文久元年という年であった。これを気に諸藩がにわかに公武合体に向けた動きを示すようになり、中央政界に存在感を示したい有力な藩は公武周旋に努力を尽くそうとした。


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