随筆「甦る楫取素彦」第42回 | 中村紀雄オフィシャルブログ 「元 県会議員日記・人生フル回転」Powered by Ameba

随筆「甦る楫取素彦」第42回

◇弘化2年~弘化3年(1845~1846)の楫取が17歳から18歳の間は、オランダの国書が忠告するように外国の接近が特に激しくなった時期であった。例えばイギリス船は琉球に来航して貿易を強要し、次いで、長崎に来航して測量許可と薪水を求め、更には軍艦で那覇に来航し琉球国王に面会を要求した。

 アメリカ東インド艦隊指令長官ビットルは浦賀に来航し通商を求めた。フランスインドシナ艦隊司令官セシーユは長崎に来航し薪水と漂流民の救護を要求した。

諸国の動きは慌しかったが、イギリスの動きは特に急であった。徳富蘇峰は「百万の妖鯨涛(ようげいなみ)を蹴(け)りて飛ぶ、英国はアヘン戦争の威に乗じて我那(くに)に来たり迫る」と表現した。無数の外国船が迫る様はアヘン戦争の後だけに、怪しいクジラが波をけって迫ると映ったことだろう。

◇弘化4年(1847)、楫取19歳。この年、養父小田村吉平が没し、楫取は、家督を相続して儒者の道を歩み始める。この時の明倫館での立場は、司典助役・兼助講であった。司典とは書籍を司る役である。

※土・日・祝日は中村紀雄著「甦る楫取素彦」を連載しています。