人生意気に感ず「広島市長の平和宣言。鈴木貫太郎。八ッ場の完成時期」 | 中村紀雄オフィシャルブログ 「元 県会議員日記・人生フル回転」Powered by Ameba

人生意気に感ず「広島市長の平和宣言。鈴木貫太郎。八ッ場の完成時期」

◇原爆の残虐性と非人道性を自民党が先に立って訴えねばならないといつも思う。一瞬にして骨や肉を焼き尽くすだけでなく、放射線の恐怖はいつ迄も続く。

 昨日の平和宣言で訴えた広島市長の言葉は被曝の現実を踏まえたものだけに胸に響く。そのいくつかをここに取り上げる。

 「原爆は非人道兵器の極みであり絶対悪です」、「ヒロシマは、日本国憲法が掲げる崇高な平和主義を体現する地であると同時に人類の進むべき道を示す地でもあります」、「日本政府が国民の暮らしと安全を最優先にした責任あるエネルギー政策を早期に構築し実行することを強く求めます」等。

  「3.11」の原発事故は、忘れかけていた原爆の悲惨さと課題を改めて今日的問題として私たちに突きつけた。市長の言葉はこのことを訴えていると思う。

◇68年前の日本の運命を決定付けた出来事を確認したい。「8月6日、広島に原爆投下、9日、長崎に投下、14日、ポツダム宣言受諾回答、15日、天皇、終戦の詔書放送」

 特に、ポツダム宣言受諾に示した、我が鈴木貫太郎の機智と決断は重要である。鈴木は桃井小、前中(現前高)を経て海軍兵学校に進んだ。昭和20年4月7日内閣総理大臣に就く。78歳。組閣当夜、ラジオで「国民よ我が屍を越えて行け」と語った。これは殺されることを覚悟して終戦を成し遂げる決意を示したもの。御前会議で本土決戦を主張する人々は譲らず会議は結論が出ない。この時鈴木は、かくなる上は天皇のご意見に従おうと行動に出た。天皇は自分はどうなってもいい、戦争を止めて国民を救いたいと発言。これが会議の結論となった。軍人鈴木の戦略的機智の見事な成果であった。日本を救った宰相なのだ。群馬県は、群馬の宰相として4人を掲げるが、鈴木の姿はそこにない。鈴木も特設コーナーを設けて写真を掲示すべきではないか。

◇鈴木貫太郎が桃井小学校に転校したのは明治10年。父親が群馬県庁を職場に選んだのは群馬の教育が優れているという理由であったらしい。初代県令楫取素彦の赴任が明治9年のことであった。

◇八ツ場ダムの完成時期は2015年度とされていたが19年度に変更されて決定した。初めて完成年度が正式に示された。政治に振り回された八ツ場。治水・利水の大問題と結びつく。(読者に感謝)