人生意気に感ず「萩の講演は成功。松蔭神社で留魂録を読む」 | 中村紀雄オフィシャルブログ 「元 県会議員日記・人生フル回転」Powered by Ameba

人生意気に感ず「萩の講演は成功。松蔭神社で留魂録を読む」

◇いよいよ講演の日である。楫取素彦生誕の地・今魚店町(いまうおのたなちょう)の中原正男さんの運転で講演の町へ向かう。中原さんは日本海に面した萩市から瀬戸内海に臨む宇部市まで迎えに来られ、また、道を折り返しているのだ。片道1時間半・途中の中国山地ではなだらかな丘陵にのどかな農村地帯が広がり緑の木々の間に時おり赤い実をたわわにつけた柿の木が見えた。

 今魚店町は小島が点在する日本海に臨む地の萩城跡の近くにあった。波の音が聞こえる町の角に楫取を顕彰する立派な説明板が立てられ、その中に群馬における業績を記述する私の文章があった。

 町内の「老人憩いの家」の広間に多くの人が集まった。地元紙でこの日のことが報じられていたのだ。山口県議会副議長の新谷氏、萩博物館学芸員、萩市職員などの姿もあった。スクリーンに映す用意をした資料に県庁近くの清光寺の場面があった。騎兵隊の姿で並ぶ萩市の人々である。「ここへ来てこの姿に着替えたのでしょう」と言うと、「萩からその姿で行った」と会場から声が上がった。何と、会場の2人は写真の人物であった。これからは、楫取の結ぶ縁を生かして、親類付き合いをしていきたいと言って講演を結んだ。その後、地元の新聞とテレビの取材を受けた。

◇松陰神社内の宝物殿・至誠館館長近藤隆彦氏が待ち受けて松陰の資料を説明してくれた。留魂録は心打つものであった。吉田松陰は安政6年10月27日の朝死罪の宣告を受ける。門下生に残した遺書・留魂録は、その直前10月25日から26日夕刻にかけ書いたもの。その中に、小田村伊之助(楫取素彦のこと)の事が書かれていることを知った。「同志諸友ノ内小田村・久保・久坂等ノ事」と特に記している。

 なお留魂録は2通作られ、1通は門下生に 届けられたが回覧のうちに行方不明になった。もう一通は共に牢内にいた者に託した。兵学者松陰の深慮だという。託された沼崎は衿の中に縫いこんで隠し、後に出獄し長州人に届けたという。

 講演では同じく国法を犯し、こちらは渡米に成功した新島襄の事も話した。その弟子・湯浅次郎が県会議長として、楫取と力を合わせて全国初の廃娼県への道を開いた事につなげたのである。萩の海を見詰めると松陰や晋作の姿が浮かぶようだ。(読者に感謝)