「上州の山河と共に」 第42回 東大紛争・林健太郎先生との出会い | 中村紀雄オフィシャルブログ 「元 県会議員日記・人生フル回転」Powered by Ameba

「上州の山河と共に」 第42回 東大紛争・林健太郎先生との出会い



 文学部のストライキの中で、教授との団交がしばしば行なわれた。学生側は革マル派が中心であった。林先生は、ここで学生側の理不尽な要求を頑としてつっぱねたので、他の教授は帰されたが、林先生は長く軟禁状態におかれることになった。林先生は筋の通った明快な論理を主張して一歩も譲らなかった。革マル派の学生も内心もてあまし、かといって自分達の非を認めて軟禁を解くわけにもゆかず、困ったらしい。外にいる私達にも、先生の発言や様子が伝わってくる。学内外の世論は、林先生支援で盛り上っていった。このような騒ぎの中、三島由紀夫、阿川弘之らが、林先生支援にかけつけるといった一幕もあった。とにかく、林先生は、終始自分の主張を明快に、そして、冷静に説き続け、173時間、ついにドクターストップになって東大病院にかつぎ込まれるまで頑張り通した。

 先生の態度は、この東大紛争の中にあって、いつも優柔不断で、勇気を持った判断を下せず右往左往していた大方の教授連と比べ、一際光っていた。林先生を軟禁した派の中には私の友人、知人がいたが、彼らも、林先生の態度には脱帽し、敬意を払っていたらしい。後に、機動隊に攻められて、建物を占拠していた学生は全て追い出されたが、文学部の壁に「林健太郎に敬意」という落書が残されていた。林先生は、命をかけ、体を張って、学生に対する教育を実践されたのであった。この間の事情は、文芸春秋6月号(1992年)に、当時の警備責任者佐々淳行氏の「偉大なる教育者、林健太郎」に詳しく書かれている。先生は、その後、東大総長となり、さらに、参議院議員になられたことはあまりにも有名である。

 林健太郎先生は、私にとって、それ迄、その輝かしい業績と共に学者として高く仰ぎ見る存在であったが、東大紛争を通して、私は人間として、教育者として、先生の偉大さを知ることになった。先生は、また、その冷静な風貌の中に大変温かい愛情を秘めておられた。私が全く無名の新人として、県議選に打って出た時、先生は、私のような弟子の為に、ポスターやパンフレットに推薦者として名前を出すことを承諾し、更には、前橋の県民会館に来て心のこもった応援の講演をして下さったのである。この点については、後に、改めて触れることにする。(読者に感謝)