人生意気に感ず「敗戦と重なった東南海、南海の巨大地震」 | 中村紀雄オフィシャルブログ 「元 県会議員日記・人生フル回転」Powered by Ameba

人生意気に感ず「敗戦と重なった東南海、南海の巨大地震」

◇昔の人は、大地震は乱れた悪政に対する天の戒めと考えた。科学が発達した現代に於いても巨大地震や大津波に見舞われた時は、神秘的な何かの意志の働きを想像してしまう。終戦記念日が近づく。敗戦に向かう頃大地震が頻発していた。

 太平洋戦争は1941年(昭和16年)に始まった。緒戦は優勢であったが、やがて追い詰められ敗色が濃くなっていく。ちょうどこの時期に合わせたように巨大地震が日本列島を次々に襲った。政府は情報を管理して必死に隠そうとした。国民が天も味方しない戦争と受け止め戦意を喪失させることを恐れたのである。

 43年、ガダルカナルで大敗を喫し、44年にはサイパン島も奪われ、この島を基地としたB29の本土襲撃が始まり、45年8月には2発の原爆を落とされ日本は無条件降伏する。

 この時期に1000人規模の死者を出した大地震の発生が重なった。即ち、43年の鳥取地震、44年の東南海地震、45年(終戦)の三河地震である。この動きは日本が降伏しても止まず、翌46年には南海地震が発生した。

 このうち、東南海地震と南海地震は、東海地震と共に、近い将来発生が確実視される海溝型の巨大地震であった。

 44年(昭和19年)12月7日に発生した東南海地震は、遠州灘から紀伊半島沖を震源とするもので死者行方不明者は1223人であった。名古屋市などの軍需工場に多くの死者が出た。その中には、戦闘機「零戦」の工場もあった。この時期に多くの飛行機工場が倒壊することは日本の戦力にとって一大打撃であった。

 戦争遂行に不利な情報は国民に伝えることは出来なかった。新聞もこの惨害を紙面の片隅に大した被害はないと小さく扱った。

 終戦の年(45年・昭和20年)1月深夜、三河地震が発生し渥美湾沿岸の死者は2306人に達した。東南海地震からひと月余り後の空襲下の出来事。断層の活動による内陸直下地震であった。三河地震では東京や名古屋から疎開していた多くの学童が犠牲になった。

 終戦の翌年紀伊半島から四国沖を震源とする海溝型巨大地震・南海地震が発生し死者は130人とされた。終戦の復興期は巨大地震のない安定期に恵まれ経済は奇跡的に発展した。ところが、今再び活動期に入った。かつてと違う状況は日本列島には54基の原発があることだ。有史以来の新たな国難が迫る。この事を考える8月15日にしたい。(読者に感謝)