「上州の山河と共に」 第12回 小学生時代 | 中村紀雄オフィシャルブログ 「元 県会議員日記・人生フル回転」Powered by Ameba

「上州の山河と共に」 第12回 小学生時代

 明日は宮城を離れるという日、私は福島浩と会った。福島浩は、しょんぼりしている私に、来年からは中学生になるから、みしめて勉強して高校へ行こう、高校でまたいっしょになれるではないかと言った。

 私は自分の将来が不安であった。高校へ行けるであろうか。町の学校はどんな所だろう。こんな思いを胸に私は、きっと遊びにきてくれよ、と彼に頼んだ。仲間と別れて自分だけが日の当たらない道に入りこんでゆくようで淋しくてならなかった。こんな私の気持ちがよく分かっている福島浩は、私をなぐさめ勇気づけようとしていた。私は涙が出そうなのをこらえ、新しい所で、福島達に敗けないように頑張らなければと自分に言い聞かせた。

元総社時代

元総社で暮らした少年時代は、私の人生でも特別な意味をもつといえる。それは、貧しさということを真底味わったからである。この時代に身につけたこと、そして、体験したことは、宮城村でのそれらとは別の意味で、その後の人生における私のエネルギー源となったと思われる。また、それらは、宮城村の生活が私の心に春風を送り込みきれいな夢を育てたのとは対照的に、私の心に暗い陰をつくり、これを拭い落とすことは、私の青春の一つの課題となるのである。
 私は、昭和27年の秋、元総社小学校に転入した。宮城から移って私たち家族が住んだ所は、元総社農協の南、牛池川の端である。家財道具を積んだトラックに乗って、始めてここに来たとき、私はトラックから降りる気になれなかった。なぜ、こんな家にと思った。それは、宮城の家よりはるかにみすぼらしい、藁屋根、丸太の柱、そして荒壁の掘立小屋であった。父の説明では、一時ここに居て、住める家を捜すということであったが、父の身体の具合が一層悪化したという事情もあって、ずっとこの家に住むことになる。この掘立小屋に幅1間位の木造の部分を付け足して、ここで、コッペパン、アメ、トコロテン、などを売る三文商いを始めた。父の考えでは、ここで、煎餅を作り、店で小売りしながら、同時に、市内の昔のお得意に卸(おろ)せば食べて行けると考えていたようである。※土日祝日は、中村紀雄著「上州の山河」を連載しています。