中村のりお「未曾有の災害に対して立ち上がる時」「上州の山河と共に」第3回
史上最大の災害は正に国難となって私たち日本人の前に立ちはだかりました。日本人の心は貧しくなった、伝統の武士道の精神は消え失せたという声がしきりに聞こえますが、基本的には、日本人の精神は健全なのだと信じます。普通、表面に現れない日本人の本質は、まさかの時に発揮されます。
それは、先ず平成7年の阪神淡路大震災の時に如実に示されました。ボランティアで駆け付けた人々の数は、一年間で、延べ数にして130万人に達し、この事実は、その後の社会の流れを大きく変える契機となりました。ボランティアを法的に支える制度も出来、ボランティアの存在は、社会を支える大きな柱となったのです。平成一二年度の国民生活白書がボランティアの特集を組んだ事も、これを物語っています。
この度の東北・関東大震災の惨状は、阪神淡路の比ではありません。正に日本人の真価と底力が試されています。小学生に至るまで、助けてやりたいという奉仕の心を現しています。全ての人が同じ心を抱いているに違いありません。問題は、個人が抱く温かい心を有効に被災地につなげることが難しいという事実です。ここに行政や政治の役割があります。
私たち自民党は、知事に提案して県行政を動かし、独自に対策本部を立ち上げあらゆる可能な方法を模索しております。
例えば、三月十八日、県議団の第一陣が、米や水などの生活必需品を相馬市長に届けました。また、県民の皆様の善意の品物については、これまで、搬送手段がない等の理由で対応できないでおりましたが、私たちが交渉した結果、自衛隊新町駐屯地へ持ち込むことが可能となりました。
中村のりお後援会では、後援会の皆様だけでなく広く市民の皆様に呼びかけ、皆様の善意を被災地にお届けする決意であります。次の点にご協力下さるようお願いします。
① 自民党の救援募金へのご協力をお願いします。
② 救援物資は、中村事務所(小坂子町公民館)にお届け下さい。
最優先に必要 救援物資 として要請されているもの
水・食糧(特にレトルトや缶詰など、すぐに食べられるもの)・カセットコンロ・電池・電池で携帯電話の充電ができるもの・ラジオ・上着・肌着・衣服・毛布・生理用品・おむつ・介護用パンツ・コンタクト洗浄剤・歯ブラシ・歯磨き粉・マスク・消毒液・割り箸・靴・長靴・トイレ用品・ゴム手袋・軍手・赤ちゃん用ミルク・カイロ・トイレットペーパー
*原則として、全て(新品・新古品)でお願いいたします。
義援金 受付口座
自民党東日本地震救援募金 群馬銀行 県庁支店 普通預金 00577415(振込手数料は無料です)
中村のりお著「上州の山河と共に」第3回
曲輪町で生まれる
私は昭和15年10月30日、前橋市曲輪町103番地で生まれた。世の中は太平洋戦争の方向へ向かって突き進んでいる騒然とした時代であった。既に、昭和13年には国家総動員法が作られ、私が生まれた15年には、日独伊三国軍事同盟、16年には、日ソ中立条約が結ばれ、そして、16年12月、遂に、太平洋戦争突入となった。
私が生まれた曲輪町103番地は、今は大手町の県庁前通り、秋葉写真館がある四つ角で、北側の東の角、今は、安田生命ビルが建っている所であった。父は、ここでせんべい屋をしていた。私の祖父は、福井県で羽二重の工場を大きくやっていたが、大恐慌で事業がうまく行かず、前橋にやって来てせんべい屋を始めたのである。
そこは、当時は萩町といったが、現在は昭和町、3中の北側の道路に面した所で、屋号は東京煎餅であった。当時とすればめずらしいオート三輪を使い、製造、卸をかなり手広くやっていたらしい。父は二男であったので、結婚と共に独立し、前期の場所で商売をすることになったのである。母は、総社町山王の鹿野という百姓の娘であった。これが、私の簡単なルーツである。
私が生まれて間もなく太平洋戦争が始まり、父は徴用で理研で働くことになった。商売が出来なくなったのを機に、私たちは、近くの曲輪町102番地・高島さんの借家に移り住むことになったが、この頃から戦局は次第に悪化しつつあった。当時の私に詳しい事は分かる筈もなかったが、ただならぬ状況が進んでいるらしい事は理解できた。
私は、北曲輪町のマツテヤ幼稚園に通っていたが,空襲警報が鳴ると防空頭巾を被って先生に手を引かれて逃げ帰ったことなどが思い出される。また、夜、眠い目をこすりながら、母親につれられて、県庁裏の、今は幸の池となっているあたりの、小高い桜の丘の下に並んでいる防空壕に逃げ込み、息を殺してB29の音を聞いたことなど、今でもはっきりと思い出される。(読者に感謝)