人生フル回転「小寺前知事死す。私との関わりと思い出」 | 中村紀雄オフィシャルブログ 「元 県会議員日記・人生フル回転」Powered by Ameba

人生フル回転「小寺前知事死す。私との関わりと思い出」

◇小寺前知事が亡くなった。21日午前2時45分。70歳と2ヶ月余であった。参院選落選後の心臓手術がうまくいかずドクターヘリで東大病院に運ばれ、その後深刻な状態が続いていたらしい。私とは様々な関わりがあった。知事としての絶頂期とその後の悲運を比べると、人の一生はかくの如きかという思いを抱く。ジェットコースターのような変化に小寺さんの心臓は想像以上の負担を感じていたのではなかろうか。心からお悔やみを申し上げる。以下いくつかの思い出を辿る。

◇平成13年10月、パプアニューギニア慰霊巡拝に小寺さんと出かけた。私は当時副議長であった。その直前9月21日には、ニューヨークであの同時多発テロが起きていた。ニューギニアは12万人の犠牲が出て、そのうち9230名が本県出身者だった。言葉に尽くせぬ戦争の悲惨さを小寺さんと話しあった事が懐かしく思い出される。まだ、県議会との関係が良好の頃で炎暑の下での小寺さんははつらつとしていた。

◇平成17年私が議長となった頃から自民党を中心とした議会と小寺さんは対立するようになった。対立点の一つに議員定数削減問題があった。議会の大筋は6減らして50とする方向であったが、知事は45を提案。議会の自立性を軽視するものとして、私たちは強く反発。膠着状態の中、知事が議長室を訪ね対談。その中には、テレビで私と公開討論をという提案もあったが実現しなかった。知事は世論の支持を信じていたのだろう。

◇平成18年には、ぐんま国際アカデミー問題で激しく対立した。知事は、実質的に「市立」だから助成は出来ないとして譲らない。そこで私は全員協議会を開くことを提案。知事室を訪ねて長く話し合った。その後、伊香保の会合にいた私の携帯に事務局から知事が明朝会いたい旨の電話があった。そんな経緯があって全員協議会が開かれた。ここでは、太田市長と知事がそれぞれ考えを語り食い違う点と打開策の存在が明らかになった。

◇小寺さんは知事5選目に挑戦し敗れた。平成19年7月22日午後10時半過ぎ大澤当確が報じられると、大澤事務所は歓喜に沸いた。翌日の新聞には悄然とした小寺さんの姿があった。

 今年7月には参院選に民主党から出て、落選した。小寺さんのポスターの表情は生気が感じられず心配していた。悲運の人であるが、その評価は歴史が下すだろう。ご冥福を祈る。(読者に感謝)

☆土・日・祝日は、中村紀雄著「炎の山河」を連載しています。