伊藤高志  アナザーワールドとしての映像空間(2022)

 

(本稿はシアター・イメージフォーラムでの「伊藤高志特集2022 『零へ』+傑作過去作品集」上映の劇場パンフレット(ダゲレオ出版 編集・発行、2022.8)に過去の作品の概観として書かれた文章である。新作『零へ』については本ブログのレビューに書いたので、文末に そのリンクを掲載。)

 

 

 1980年代、日本の映画環境は大きく変化した。ミニシアターの活況により多様な世界の映画が次々公開され、「月刊イメージフォーラム」はじめ新しい映画雑誌や新しい書き手・読者が登場、撮影所育ちではない若手監督の台頭、ビデオやレーザーディスクによる新旧作・未公開作の発見など、映画文化が活性化していた。実験映画・個人映画の領域でも、イメージフォーラムが四谷三丁目に常設上映スペースを持ち、作家育成のため映像研究所を併設、月刊誌では実験映画やビデオアートの記事を積極的に掲載した。若い作家グループや地方の上映活動も活発だった。

 伊藤高志が『SPACY』(81)で彗星の如く登場したのはまさにそんな時期で、作品は九州芸術工科大学のゼミ発表作品(卒業制作の予定)だった。赴任したばかりの松本俊夫のもとで制作を続けたくて自主留年し『BOX』『THUNDER』(82)と立て続けに傑作を作ったのは伝説だろう。音響の稲垣貴士も同級生だった。九州芸工大は理系かつ芸術系という画期的な新設国立大で学科名も音響設計・画像設計などユニークだった(2003年九州大学に統合)。当時の芸工大からは伊藤高志ら学生のみならず助手の森下明彦や伊奈新祐など個人映画とは異なる感性で映像を探求する一群の作家が登場した。

 

 『SPACY』の独自性は、視点と運動のみがそこにあり、その一種バロック的な空間に有無をいわせず観客を引き込み体験させる点だった。観客はのんびり外から眺めてはいられず、展開する運動の「中」に入らざるを得ない。そのスピード感と密度ある体験は新しい知覚であり幻惑だった。海外でも多く上映され、1995年にはポンピドゥセンターの実験映画コレクションに購入・所蔵された。

 

(ポンピドゥセンター公式HPの作家紹介ページ、なぜか国籍がアメリカになっている)

 

 『SPACY』公開当時に書いた拙文を同時代の一つの反応として引用してみたい。

「伊藤高志の世界は都市の密室空間である。彼の作品を貫く空間的マニエリスムと強迫的な視覚運動は、膨大な数の連続写真(『SPACY』『BOX』)や夜を徹したバルブ撮影(『THUNDER』)の制御から生まれるが、それ以上に袋小路や壁が彼の世界の唯一の現実となっていて、その眩惑的熱狂は絶望のあがきとも見える。(中略)彼は、今年『爆裂都市』というとてつもない長編を作った石井聰亙の近辺に位置するルーカス=スピルバーグ以降の映画作家の感性を表明している。彼らの映像は意味の深みへではなく視覚表面のインテンシティへ向い、そのイメージが識閾下へのメッセージをなしているのだ。」(「映像のパラドクスとメディアの認識論」日本読書新聞1982年12月27日号)

 

 大学卒業後、西武百貨店文化事業部から系列の新設映画配給会社シネセゾン[1984-1998]に移った伊藤高志は、配給業務や予告編製作で10年ほど忙しい日々を送りつつ、亡霊的な『GHOST』(84)『GRIM』(85)や『WALL』(87)のような16ミリ作品を制作し、石井聰亙『逆噴射家族』(84)の特殊撮影シーンを自分の作風で作ったりもした。松本俊夫の招請で京都芸術短期大学(京都造形芸術大学[現, 京都芸術大学]の前身)に勤めた時期から作風は変化し、人物/身体が登場し始める。『ZONE』(95)の首のない人体や少年は虚構的で、『モノクローム・ヘッド』(97)や『めまい』(01)の人物は物語や演劇性を孕んでいた。

 

「伊藤高志は94年の『THE MOON』あたりからそれまでの作風と違った変化の兆しを見せ始め、続く『ZONE』『モノクローム・ヘッド』でその予感は決定的となる。(中略)初期からの観客にはこれは作者にもコントロールしきれぬ「深い世界」に入り込む、危険で魅惑的な試みのように感じられた。悪夢やトラウマの、無意識的世界。不穏で邪悪ですらある心の「闇」の世界。そこに入ると何か悪いことが起きそうな、訳の分からない領域、その入れそうでは入れない入口が(中略)至る所にある感じなのだ。」(拙稿「伊藤高志」『スーパー・アヴァンギャルド映像術』フィルムアート社、2002)

 

 近年ではこの不穏な幻想・幻視が『最後の天使』(14)や力作長編『零へ』(21)で独特の洗練された映画的世界を創出しているのは周知の通りだ。空間/風景に身体が介入し、脚本があり人物もいるがダイアローグはなく、不穏な気配、動機のわからぬ(時に凶暴な)アクションやパフォーマンスが風景の中に曝け出される。その場所は『SPACY』の閉じた空間に比べずいぶん開かれた場に見えるが、同時に閉ざされた人物の内界とも思える。それは遠いようで近い場所という気がするのだ。

 

 伊藤高志はかつてこう書いたことがある。

「映画は非現実的な世界をそれ自体が生々しい現実として知覚され、独特の不思議な空間を作り出すことが出来るものだ。私はこの映画の魔術を駆使し、今まで慣れ親しんで見てきた日常的風景がドキッとする“一瞬”をキッカケに、見る者(私)を超常現象的なイリュージョンの渦へ引き込む過程を、映像に求めてゆくことを最大のテーマにしている。」(「月刊イメージフォーラム」1984年10月号)

 「映画を作るのはアナザーワールドに入るため」というデヴィッド・リンチの映画観にも通じる伊藤高志のこの言葉は彼の作品全てに通底していると思うのである。

 

ⓒ西嶋憲生