伊藤高志『零へ』(2021)

2022/8/12 シアター・イメージフォーラムにて

 

 

 伊藤高志の『零へ』を見るのは何度目かになるが、何回見ても不思議な作品であり、その都度新たな発見のある作品である。72分の長編。まるでアントニオーニの『欲望』(67年)のように、人物の行動や出来事は追えるが、「何」が描かれているのかわかるようでわからない。そういえば、『欲望』の1シーンを想起させるような、無人のテニスコートにボールの音だけが響くシーンもあった(この映画で「音」が果たしている役割はとても大きい。映像を説明するのではなく映像に介入しときに襲いかかるような音たち)。

 人物についても、物わかりのいいドキュメンタリーのようにはじまり(しかしダニエル・シュミットの『書かれた顔』のように、生身の舞踏家と鏡越しに化粧された役柄の人物が二重化される)、大学の学生とその指導者である(画面外の)作者の会話のように、確かに実在する人物たちを描くかに見せながら、人物は突然無表情になり、劇中の世界の説明できそうでできない出来事を演じていく。

 その人物たちはときに分身のようであり(最初に出てくる映画を撮る女子大生二人も分身的に見えるが、黒メガネの子と同じ衣装で同じメガネをかけた明らかに分身の女性も途中から出てくる)、また人物たちはフワーッと風景の中にフェイドアウトするように消えていくことが度々あり、彼らの実在の不確かさ、一種の「亡霊的」存在感が強調されている。

 亡霊的(あるいは天使的)な人物たちは、こちらとあちらの世界を行き来している。映画には「こちら」しか映らないのだが、ふと隣接する「あちら」側に消えてしまうのである。それは、現実とあの世、生者の世界と死者の世界、この世界と別の世界のようでもあるが、この映画では現実の確かさはつねに揺るがされいて、それが全体を包む不穏でミステリアスな雰囲気を醸し出しているのだ。

 何かを探し求めながら何かに脅かされている老人(冒頭の舞踏家・原田伸雄氏演じる)は白と黒(光と闇)に支配され、白いスーツの彼は黒い女性たちの影に怯えている。それは死後の世界に入り込んだ『オルフェ』(50年)のようであり、同時に私にはベルイマンの『野いちご』(57年)で高齢のヴィクトル・シェストレム監督が演じたイサク老人をも想起させ、イサク老人が同じ監督の『ペルソナ』(66年)の女性2人と出会った映画のような印象さえ与えた。

 不穏でミステリアスなもの。それは伊藤高志の『THE MOON』(94年)以降に明らかなニュアンスなのだが、それ以前、そもそも初期から伊藤作品はそうだったともいえる。ただ若い頃の作品はダイレクトでストレートな欲望や衝動に根ざしていて、それが中年期になるにつれ、より複雑で捉え難い、「無意識」に触れるようなものになってきたのだろう。そこに、夢の中の人物のように、風景の中にあるいは部屋の中に、「人物」が現れてきたのだった。

 人物がふっと消えてしまったり、画面の外に出ていってしまい、風景の中にカメラと三脚だけが残されるというカットが2回はあった。人物がいなくなり風景だけが残される。この映画の最後では、エンドクレジット(出演者紹介)の前で、ただ風景だけが次々と映し出されていく。老人の住む家、鉄塔、人物たちが何度か通った道や階段、踏切など。そこにもはや人影はまったくなく、ただ風景だけがある。(小津安二郎の映画などで)「空ショット」(empty shot)と呼ばれることもある無人の風景ショット。

 この映画のタイトルにある「零」とは、この人のいない風景、何もドラマが起こらない、ただの風景、零度の風景、零の風景のことなのだろうか。風景のこちら側とあちら側。人物の不在あるいは消失。

 

 そして、この映画は零の風景のまま、説明のつかないものがそのままにされて終わる。

 たしかに夢の中ばかりでなく、現実の世界もまた説明のつかないことが次々と起こる。突然大惨事が起きたり、異常な事件が起こったり、地震や津波に襲われたり。人の死も説明がつくわけではない。その一方で、考えてみれば劇映画の中で我々はさまざまな奇想天外な出来事に出会うものの、その多くは説明がついて劇中で完結して終わっているのではないか。

 説明のつかないままに終わることが許される映画はごくわずかな気がする。ルイス・ブニュエル(たとえば『皆殺しの天使』でも『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』でも)、デヴィッド・リンチ(『イレイザー・ヘッド』でも『マルホランド・ドライブ』でも)、あるいは先に挙げたミケランジェロ・アントニオーニ(なかでも『赤い砂漠』から『砂丘』)や黒沢清のいくつかの映画……。

 伊藤高志という作家をそういう映画作家の系譜の中に置いてみたいという誘惑に駆られる映画体験であった。

 

©西嶋憲生