夢の野原で語りかける<声> ──山田勇男の作品世界

(初出「月刊イメージフォーラム」1990年4月号、pp.30-33)

 

 先日友人からもらった「3 MUSTAPHAS 3」というグループのテープがある。国籍不明のエスノ・ミュージックで、曲により英語ありフランス語ありアラビア語ありスラブ系あり、メロディも言語とともに変わってしまう。民族や歴史として「定着」していかない、架空のエスノ感覚、どこでもない国のエスノ文化(!)を感じさせる不思議な音楽だった。

 この、どこでもない国の郷土感覚というのは、山田勇男の映画を見ていて感じる印象でもある。

  山田勇男の映画は──劇映画であれプライベート・フィルムであれ、作者がカメラを持つにせよ持たないにせよ──夢のあてどなさの中でどこでもない国を目指して夢遊病者のように歩き続ける。まなざしに溢れた映画だが、そのまなざしが見つめているのは現実とは別の光景である。その映画は夢や記憶の連辞法を模倣するかのように、回想とインスピレーションの論理でつながり、またくりかえす。まるで何かを言い残すかのようにカットがとぎれてしまう。そこにさわれそうでさわれない夢の感触がある。そして個々の作品の内容的差異を越えて共通の地平へ人を誘い出すのだ。そこは「夢のフィールド」というべき場所であり、開かれた場という意味で「オープン・フィールド」といった方がいいかもしれない。

 誰もが気付くことだろうが、山田勇男の劇中人物はいつも何もない草っ原に迷いこむ。そこで男は(あるいは作者=カメラは)廃屋に入りこんだり、少女に出会ったりし、さまざまな奇妙なイメージに襲われる。ときには自分の分身と出会いもするのだ(『悲しいガドルフ』[84年]の道で作者の乗った自転車と主人公がすれちがうように)。草っ原の外にはただ海があるだけだ。この何もない草っ原こそ、山田勇男映画の原風景、「夢のオープン・フィールド」の原形にほかならないだろう。

 この野原(フィールド)に入るために人は「鍵」を必要とするのかもしれない。山田勇男映画が窓とか扉という入口探し、あるいは鏡や影や水たまりというコクトー的入口を重視し、種々の宝物的オブジェを恍惚としたまなざしで見つめるのも、そうした野の鍵としてのことかもしれぬ。彼のフィルムは、それが迷路であることを人が自覚することのない唯一の迷路、つまり夢と似た世界なのだから、飛躍が飛躍でなく、断片が全体でありうるのだが、地図や鍵は夢見る各自が用意するしかないのだ。また、しばしば作者自身あるいは作者の分身が「作中作者」という形で登場し、そういう現われ方自体が夢の構造を思わせるのだが、『海の床屋』(80年,8ミリ,監督・美術山田勇男/構成・演出湊谷夢吉)に眠っている作者が挿入されるとき、我々観客=見る者は自分が作者のまどろみの中で夢見られた存在ではないかとふと不安に襲われさえもする。

 

 

 こうした魅惑や不安は映像そのものが孕みもっている特性と共鳴しあうものだということで僕はこれまで山田勇男映画を「映像の映画」「イメージの映画」として見てきた。物語をもった映画においても映像を自分なりにつなげて見ていく方が愉しかった。しかし今回「山田勇男作品集」(イメージフォーラム,1990/1/25−28)で久し振りに初期の劇映画から最近作までを見直しているうちに、これまで感じたことのない奇妙な感覚にとらわれたのだった。

 ご存知のように山田勇男の映画にはセリフやナレーションがきわめて少ない。最近の16ミリ作品ではほとんどが音楽だけで映像の連鎖を見せていく。それをこれまでは単純に見てきたのだが、今回イメージを見ながら、いわばカメラのファインダーごしに<語る声>が聞えるような気がしたのだ。それは『水晶』(88年,16ミリ)で確信にかわった。

 これまで『水晶』を僕は、廃屋で石丸裕子が山田好みのオブジェと戯れる遊戯的小品と見ていた。しかし初期の劇作品からの流れで見てみると、その画面には一続きの<声>が聞えてくるようなのだ。こんなふうである。「私はあるとき、どこでもない原っぱを夢うつつでさまよっていたとき一人の少女に出会った。彼女は私を導くようにして打ち捨てられた廃墟に入っていき、私のためにガラス片をかざしてみせた。それは美しい宝石のようだった。足元に散らばるたくさんのガラスのかけらはキラキラしてまるで宝石箱だった。そのうち少女はそれを外に放り投げるのだった。やがて彼女は捨てられた馬、回転木馬の一頭を指さして、こう言うのだった。馬を焼くのよ。燃え上がる馬に私は見とれてしまった。いつのまにか少女は姿を消していた。その後私は二度とその少女と出会うことがなかった。」

 ひとつひとつの映像に物語を語り出す声が伴っているのだ。ああ、そうか。山田勇男のフィルムとはすべて<私>の物語だったのだな、と僕は思った。彼の映画に(シナリオのある)劇映画と(即興的で独特なノリをもった)プライベート・フィルムがあるわけでなく、影の映画と光の映画があるわけでもなく、どこでもいつでも<私>がいて物語を語り出そうとしている、その気配こそが山田勇男映画なのだ、と体感したのだった。『銀河鉄道の夜』(82年,8ミリ,監督・美術山田勇男/脚色・美術湊谷夢吉)がそうしたフィルムの中で改めて傑作として輝きをまし、作者自身がカメラを回せば<私>はすなわちカメラのまなざしとなって映像=スクリーンというもうひとつの夢の野原に迷い出す。

 その語りかける声、その主体である<私>とは私小説的な実在者としての私などではむろんなく、夢や物語の中で語り出す架空存在のナレーターとしての私とでもいうべき者のようだ。つねに過去形で語ろうとする、老いた作家の回想にも似たゆっくりとした声(影のアメリカ旅行記『ライオンと菫』[86年,8ミリ]は例外的に現在形の声だったが)に出会って、僕もやっと山田勇男的世界がスクリーンの表層に現出させる「夢の野原」に入りこんだのだろうかと思わされた。

 山田勇男の映画にはたしかに「憧れ」の感情が、あるいは「郷愁」に似た想いが流れている。そういうニュアンスを映像から浮び上らせる術を持っている。それは誰もが認めるところだろう。しかし多くの人は彼にとって「撮る」という行為が、単に自分の偏愛するオブジェを提示する手段であるように思っているにちがいない。ああ作者はこういうものが好きなわけだな、と。だが、そう単純なことではない。山田勇男にあって、「撮る」とは「物語る」ことにほかならず、それはちょうどサイレント映画を見るときのように、映像的な語りの手法(たとえばフェイドイン、フェイドアウト)を通して物語に入りこみ、音や声を「聴く」のと同じことなのだ。

 おそらく山田勇男の世界がファンタジーの領域に属するとするなら、それは彼が幻想的なフェアリーテールを好むからではなく、映像というこの不確かであてどない領域を不安に横切る偶然の旅行者だからであろう。その姿は、帽子にコートにリュックサックという我々が山田映画で見慣れた姿をしているにちがいない。

 湊谷夢吉が『家路』(81年,8ミリ,監督・美術山田勇男/音楽・演出湊谷夢吉)のなかで歌っている。「我もまた異国びと」と。映画とは、あるいは映像の世界とは、人をそのような感慨と郷愁へ導き誘い出す罠に似た空間でもある。そのイマジネールな郷土誌を物語作家・山田勇男は、たとえばボルヘスのように語り出しているのだ。

 

©西嶋憲生

 

*この時期に山田勇男に長時間インタビューを行い「セルロイドの感情」として『YAMADA ISAO 夢のフィールド』(イメージ・ガレリオ、1990年)に収録された。

 

*山田勇男はこの時期から劇場用長編映画の脚本執筆を始め年内に脱稿、翌91年ユーロスペース製作により北海道で撮影され、92年に『アンモナイトのささやきを聞いた』として完成。カンヌ国際映画祭批評家週間に正式出品され、劇場公開された。

 

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