マインド・フィルム〜夢・映画・心のイメージ〜

(初出「へるめす」40号、pp.40-47、岩波書店、1992)

 

 

1 なにもイメージのないスクリーン

 

 1992年6月末に東京パーンでかわったコンサートがあった。デレク・ジャーマンの映画音楽で知られるサイモン・フィッシャー・ターナーによる「ブルー・プリント・コンサート」。

 会場ステージには大きなスクリーンが据えられ、場内を暗くして演奏がはじまると同時にスクリーンに映画が上映される。しかしそこでは、ただ青い色が延々と続くだけだ。約80分。その間、サイモン・ターナー・バンドの夢想的なライブ演奏やテクストを読むナレーションを聞きながら、観客は青いスクリーンを眺め、ときに眠り、ときに勝手なイメージをスクリーン上に発見するのだった。

 デレク・ジャーマンが数年前から構想していた未完の映画『ブルー・プリント』(のちの『BLUE』)は過激なミニマル映画ともいえるだろう。彼が美術家イヴ・クラインのいわゆる「クライン・ブルー」(正確にはIKBインターナショナル・クライン・ブルーとよばれる濃いブルー)に興味をもち、その色だけで一本の映画を作りたいと思ったアイデアに端を発する。さすがこの過激な企画に出資する者はなかったらしくいまだ未完だが(のちにジャーマン最後の作品『BLUE』として完成、94年に公開)、今回コンサートのかたちで東京・京都での「ライブ上映」が実現した。おなじ色に均一に染まったフィルムを上映するだけだからスライドでもよさそうなものを、きちんとリール交換しながら35ミリ・プリントで映写する真面目さとナンセンスがおかしかった。

 もちろんイギリス映画のニュー・ロマンティクス(新浪漫派)と呼ばれたジャーマンがミニマリズムに傾倒しはじめたわけではない。画面に映像はなくても問題となっているのはつねにイメージである。色がもたらすイメージ、声(言葉)がもたらすイメージ、そしてなにより音楽がもたらすイメージ。それらのイメージが「存在する」ことをジャーマンは逆説的にも「なにもないスクリーン」で証明しようとしたのだ。

 この映画はたぶん「ブルー・フィルム」への文字通りのパロディでもあろうし、ホモセクシュアルのジャーマンがブルーという色、とくにクライン・ブルーに愛着をもつプライベートな趣味嗜好とも直結する(ご承知のようにホモセクシュアル映画で青は特権的な色であり、ジャーマンの官能的な『エンジェリック・カンヴァセーション』(84年)でもブルーの場面は印象的だった)。そして、女性の声によるナレーション(テープ収録)では、「純粋なブルーは、愛の普遍的な色」とか、ブルー・ノート、ブルー・エンジェル、ブルー・ラグーン、ブルー・ベイビー、ブルー・ジーンズ、ブルー・ダニューブ、ブルー・ムーヴィー、フィーリング・ブルー、ボーイズ・イン・ブルー、等々と青い連想が続いていく。青い鳥(ブルーバード)だろうか、しばしば小鳥の鳴き声も入る。

 聞くところではこれが完全なバージョンではなく、現在ではデレク・ジャーマンは青い映像のなかでいくつかのイメージが動いたり、青を水と見て水泳シーンが入ったり(デヴィッド・ホックニー?)といった映画を考えているようだ。今回のは(大きなスクリーンに拡大すると)発色がクライン・ブルーより薄めで、やや緊張感に欠けたせいか青いスクリーンを見続けるのに退屈しないでもなかった。それでも、何度か場内を一羽の蛾が横切りその影がスクリーンに映ったのは感動的だったし、映画が与えられたイメージを眼で受容するだけのものでなく、見る側の心のイメージを投影するスクリーンなのだという作者のメッセージはよく伝わった。そういえば彼は「オルダス・ハックスリーの『知覚の扉』が1960年代の映画青年にとって最良の映画書だった」と語ったこともある。

 そして、このなにもイメージがない映画にジャーマンはひとつひとつシーンを想像していき、そのシーンの長さを決めたうえでサイモンとサウンドトラックを作ったという(「月刊イメージフォーラム」1989年11月号、中島崇によるインタビュー)。そのイメージは観客にどう「見える」のか。「青はこの映画のなかで人の心も表わしていて、それに合わせて呼吸音なんかも使おうと思っている。それと意識の流れを表わすダイアローグも入る。それから青い鳥も忘れちゃいけない。透明な青い鳥だけどね。」(同インタビュー、傍線引用者)

 心のなかのイメージを映像化するのでなく、心そのものをスクリーンとして提示する。このやり方は1960年代アンダーグラウンドの伝説的映画の一本、「癲癇発作誘発の警告」が冒頭に流れるトニー・コンラッド作『フリッカー』(66年)と共通する発想かもしれない。『フリッカー』にもイメージ(像)はない。シンクロ・エナジャイザーの原型というべき30分のフィルムは、真っ白なコマと真っ黒なコマをさまざまな比率で交代させ、そのストロボ効果のような明滅周期を数学的に伸縮するうち観客がなにもないスクリーンに幻覚を見はじめる。もちろんそのイメージはひとによって異なってくる。

 映画がひとつのイメージ体験であることは誰もが了解している。そして、それが他のイメージ体験、たとえば夢や記憶とつながりをもつことも多くの人が感じとっている通りである。デレク・ジャーマンの『ブルー・プリント』はそれを見せようとしたといえる。

 

2 スローモーションの生と死

 

人物や事物が夢のなかのものであるという性格を規定するものとして、さらに動きがある。監督たちはこのことについて、あまりに不注意すぎるようである。というのは、夢の人物たちは人物たちはちがった動き方をするからである。そのリズムは物理学的世界の運動法則にではなく、精神の世界の内面的リズムに従っているのだ。——ベラ・バラージュ『視覚的人間』佐々木基一・高村宏訳、創樹社、1975、p.119

 

 映画の動く映像は、ただ単に現実を写真的に模写するばかりでなく、しばしば人間の心像(心の内界のイメージ)の表出にも使われてきた。そういう心像の映像化(=外化、視覚化)を通して、無意識をスクリーン上に形象化する試みが脈々と続けられてきたといえる。リアリズム映画やドキュメンタリーのかたわらで、映画は作者の(そして観客の)内的イメージにも深く関わりつづけてきたのである。

 ベルナルド・ベルトルッチは「映画と夢はまったく同じ素材でできている」と語ったことがあるが、いざ映画が夢を描こうとすると陥りがちな「流行おくれの映画的手法の集積」に対してアンドレイ・タルコフスキーは「夢の詩的具体性にいかにして接近すべきか」と考えた。

 

 「人間の内的表象の世界はどうなるのか。人間が<自らの内部に>見るもの、あらゆる種類の夢——夜の夢であれ、<白昼夢>であれ——をどのように再現するのか、と。

 それを可能にする条件がひとつだけある。その条件とは、スクリーンの<夢>が、人生それ自体と同じように、正確な、可視的、写実的フォルムから組み立てられていなければならないということだ。ときどき映画監督は、何かを高速度撮影する。あるいは、霧の層の向こうから撮影する。盛り土のような使い古されたトリックを使ったり、あるいは効果音を導入する。観客はこうしたことに慣れているので、すぐに反応する。ああ、これは彼の回想シーンだ。これは彼女が夢を見ているのだという具合に。しかし、実際は、こうした秘密めかした、くどくどと描写する方法では、夢あるいは回想の真に映画的な印象に到達することはできない。」(「刻印された時間」鴻英良訳『映像のポエジア』キネマ旬報社、1988、p.101→ちくま学芸文庫、2022、p.115<引用はちくま版に訂正>)

 

 タルコフスキーが夢のシーンをしばしばモノクロで描いたことはよく知られている。それについて文化記号学者ヴャチェスラフ・イワーノフは「時間と事物」でこう書いている。「タルコフスキーは、主人公がその生涯を主観的に体験するさまに関心を抱いていた。それゆえにかれは、主人公の夢や譫言(うわごと)は、映画においては、現実からのそのほかの印象とおなじように知覚可能な物質性をともなってあたえられているべきであり、残りのエピソードから文体論的に切り放されるべきではない、と主張していた。」(アネッタ・ミハイロヴナ・サンドレル編『タルコフスキーの世界』沼野充義監修、キネマ旬報社、1995、p.311)

 

 キャメラを通常より速く回転させるハイスピード(高速度)撮影で得られるスローモーション映像は「流行おくれの映画的手法」の第一人者となった。アンドレ・バザンが「メリエスの『ミュンヒハウゼン男爵の幻覚』からマルセル・レルビエの『幻想の夜』に至るまで、夢はスクリーン上の幻想の華麗な一節であり続けた。承認され、公許された夢の表現は、常にスローモーション撮影と二重焼付けとを必要とした」と書く通りだ(「二重焼付けの生と死」小海永二訳『映画とは何かⅡ』美術出版社刊、二重焼付けsurimpressionとはスーパーインポーズのこと)。

 たとえば夢の場面で白いドレスの女がスローモーションで走るといったシーンにうんざりした思いは誰でも一度や二度あるだろう。この手法は、夢や幻覚と結びつきながら1920年代フランス・アヴァンギャルド映画で頻繁に使われ、ジャン・エプスタン(エプステイン)は『アッシャー家の末裔』(28年)などで効果的に挿入し、その全体が非合理な夢であろうとした『アンダルシアの犬』(28年)でもスローモーションのシーンがある(夢の中の夢ということか)。やがてスローモーションは陳腐な手法と化していくが、この映像があたえる奇妙な時間の引き伸しあるいは停滞感が「夢」の感覚と長いこと同一視されてきたのは面白い現象である。なぜなら、夢の中で人物はゆっくり動きはしても、スローモーションのような動きはきわめて限られたかたち、たとえば逃げたいのに速く走れないといったシチュエーションでしか見られないからだ。

 1940年代前半に『午後の網目』(43年)や『陸地にて』(44年)を作ったマヤ・デレンは、通俗化しがちなスローモーションをオリジナルな形で使い、それをただの感覚ではなくロジカルな意味をもつシーンとして演出した点で注目される。螺旋的というべき独特な構成でシチュエーションの反復と変奏をくりひろげる『午後の網目』は、作者自身が登場する夢の映像化、意識下の抑圧心理の劇的映像化として前衛的「サイコドラマ」映画ともよばれるが、これによって彼女はアメリカ実験映画運動(いわゆるアンダーグラウンド映画)の先鞭をつけた。マヤ・デレンの映像は『アンダルシアの犬』のような脈絡のない断片(全く脈絡がない訳でもないが)ではなく、ケネス・アンガーの『花火』(47年)と同様に、なめらかな連続性をもち、また時間があるようでないイメージ体験、夢のなかのようにゆっくりした動作を特徴とする。

 彼女は理論家として映画技法と内的イメージの創造を論じたさいにスローモーションにも触れている。

 

「スローモーションとは単に速度が遅くなることではない。それは実際にはスクリーン上ではなく私たちの心のなかに存在する何かであり、写真的映像による確認可能な現実と結びついたときにのみ作り出されるものなのである。走っている人を見てそれを駆け足と私たちが識別するとき、その確認の一部をなす知識には、動作の通常の速度というものが含まれている。スローモーションと呼ばれる時間の二重露光を私たちが体験できるのは、識別すべき行為がゆっくりした速度で起るのを目にしながらも私たちはその行為の既知の速度を自覚しているからである。だから、たとえば三角形が早くなったり遅くなったりして動くような抽象映画においては、基準となる速度がないのでスローモーションは起りえない。」(「シネマトグラフィ——現実の創造的な利用」、傍線引用者、拙訳『フィルム・ワークショップ』ダゲレオ出版、所収)

 

 マヤ・デレンについてもっとも興味深い逸話は、どうみても精神分析的象徴に充ち満ちた『午後の網目』(それ自体が眠りと夢を描いていて、花、影、ドア、鍵、鏡、窓、ベッド、階段、ナイフ、分身などが象徴的関連を暗示しながら頻出する)について、ナイフや鍵がそうした象徴として理解されることにひどく反発したという話である。彼女の父(亡命ロシア人)が精神科医であったこと、それ以上にユング派精神分析医レオノーレ・ファビッシュに見せたとき、冒頭でケシに似た花をもった手が画面に表われたときの反応に激怒して追い出してしまった体験が大きいようだ。彼女にとって映画は音楽と同じように「分析」されるべきものではなかった。「ここにはフロイト的なものなんて何もない。ナイフは象徴ではないし、鍵は象徴ではない。」ナイフはナイフであり、花は花なのだった。(The Legend of Maya Deren,Vol1 Part2, p.106, Anthology Film Archives/Film Culture, 1988) そうかもしれない。それでも、そこに展開されたのが彼女の内界のイメージであることに変りはないのである。

 スローモーション(スローダウン)がデレク・ジャーマンのお気に入りの手法で、『エンジェリック・カンヴァセーション』をはじめこの使い古された手法を彼がビデオを介在させて活性化し(8ミリ・フィルムのスロー映写をビデオで撮り、さらにビデオ編集で動きや色調を加工して35ミリ上映フィルムに再変換した)、彼固有の表現法にまで洗練してしまったのは有名なところだ。映画をただスローモーション撮影した場合のスムーズで鮮明な動きとちがい、ほんとうに1コマずつ映像がズレていくような遅延感覚。8ミリの粒状感、カクカクと分解写真のような動き、それがおなじビデオのスローダウンを活用するビデオ・アーティスト、ビル・ヴィオラの『ハツユメ』(81年)『己とは如何なるものかを知らず』(86年)やエディン・ベレツの『メタ・マヤンⅡ』(83年)などの引き伸された飴のような時間感覚とは異なる動き・質感・効果を生んでいる。それは「デレク・ジャーマン風」という言葉ができるほどに彼固有の作風となり、おおくの平凡なスローモーションとは対照的な「技法の個人化・個性化」をみせているのだった。

 このスローダウンに関して興味ぶかい映画史的エピソードは、アンディ・ウォーホルの撮った映画がある時期まですべて1.5 倍にスローダウンして上映されていたという事実だ。ウォーホルの初期作品(63−64年)はすべてサイレントで撮影され、しかも「フィックス・ムーヴィー」とよばれる共通特徴をもっていた。つまり、キャメラを固定し、フィルムを撮りっぱなしで回し(100フィートなら約3分)、無編集で上映した。しかも、撮影は通常スピード(毎秒24コマ)でおこない、映写はそれより遅いサイレントスピード(毎秒16コマ)でおこなうという原則だった(現在は16ミリ映写機の問題か18コマで再現上映されることが多い)。

 なぜそうしたのかは不明だが、それによって生じる不思議なスローダウン効果をウォーホルは「選んだ」のだった。この動きはエンパイア・ステート・ビルを一晩うつした『エンパイア』(64年)では顕著でないが(ただし上映時間は1.5 倍長くなる)、『キス』や『イート』や『ブロージョブ』(いずれも63年)では独特の幻覚的な感覚を生み出すにいたっている。

 少ない動き、スローダウン、静物的な主題といったウォーホル映画の特徴を「夢」とりわけフロイトの精神分析に関連づけたのはマイケル・オプレイだった(「ウォーホルの初期映画 リアリズムと精神分析」内田勝訳、『アンディ・ウォーホル・フィルム』ダゲレオ出版、所収)。その夢想的な動きに多くの人は官能性も感じるだろうが、オプレイはそれを、セクシュアルな激しい動きが夢のなかで身じろぎもしない注視にかわった「狼男」の症例(「ある幼児神経症の症例より」)と比較し、ウォーホルの静的で受動的な映像に隠された性的側面を指摘している。デレク・ジャーマンやウォーホル映画に感じられるのも、ホモセクシュアルの香り濃い性的エクスタシー、その引き伸しとしてのスローモーションだったといえる(ポルノ映画にもそうしたクリシェが見出されるはずだ)。

 

3 イメージ体験としての夢と映画

 

 今年作られた異色の日本映画『アンモナイトのささやきを聞いた』(92年)も「夢」をあつかっている。監督はこれまで夢の断片を実験映画にしてきた山田勇男、そして音楽は先に名前の出たサイモン・フィッシャー・ターナーが担当しすばらしい効果をあげている。

 ほとんど時間が存在しない、ゆったりとした流れのなかで絵画的で静的なイメージが連続していく。どこまでが現実なのか、画面が個々にどういう意味をもっているのか、わかるようでわからない。意味は隠喩的で、多義的に感じられる。それでいて美しい。解釈は見たひとによってかなり異なったものになるだろう。

 この映画でも人物たちはつねにゆっくり動いている。誰もいない森のなかや雪原や海岸や廃墟といった「風景」(あるいは「自然」というべきか)のなかを主人公はさすらっていく。しずかに振り返ったり、ゆっくりと目を瞑ったり開けたりといったしぐさ(夢の暗示)をくりかえす。病気の妹を訪問するという設定が冒頭で示されるものの、急ぐふうでもなく、むしろ到着を引き伸すようにあちこち夢の風景をさまよっていく。森で年老いた自分と出会ったり、少年時代の自分と妹を目撃したりもする。現実的な時空間の連続(そして因果論的な直線的物語性)は解体され、イメージが入れ子的にコラージュされている。サイモン・ターナーの音楽はひじょうにエモーショナルでドラマティックだ。が、画面の人物は逆にほとんど無表情で静的である。観客もどんどん感情移入して見ていくわけにはいかない。なにか異次元にさまよいこんだ感じで傍観するばかりだ。

 この映画に時間があまり感じられないのは、夢がなにより空間的な出来事であり、じっさいに夢のなかに時間があるかどうかも疑わしいことと関連してくるだろう。おおくの劇映画がなにより直線的な時間を圧縮した産物とすれば、すくなくともこの映画はもっぱら「空間的」な特質(それも非ユークリッド的な)にみちあふれている。因果論的な時間はここには流れない。編集と音楽の力でうみだされた快いリズム、眠りに特有なリズムが終始感じられるばかりだ。夢と同様にここでの出来事の輪郭はつねにあいまいである。宮澤賢治と妹トシの関係からインスパイアされたと解説にあるが、むしろ主人公ははるかに匿名的な人物、しいていえば作者の象徴的な分身とみなすべき存在である。

 山田勇男は一時期、自分の影ばかりを撮っていたことがある。影とは実像あるいは現実からのズレであり、たどりつくことのできない距離や領域を指し示している。『アンモナイトのささやきを聞いた』の奇妙な人物たちには影が存在しないように思えるのは、彼らがイメージとしての存在でありすでにひとつの影=分身であるからだろう。妹を女性というより両性具有のアンドロギュヌスと考えたというこの作者にとっては、奇妙なことに妹さえも自分の分身なのだ。夢ではすべての登場人物が夢見るひとのなんらかの分身といわれるが、この映画にも同じ原理が見出される。

 そして、この映画はもちろん劇映画のなかに夢の場面が挿入されたおおくの映画とはちがっているし、タルコフスキーのように夢と現実を(多くの場合、白黒画面とカラーによって)区別した上でその詩的境界をさまようわけでもない。作者があきらかにめざすのは、夢自体ではなく夢に似たイメージ体験である。山田勇男はこの映画について「失われた記憶の風景」あるいは「イメージの元型としてのヴィジョン」を夢というかたちを借りて描いてみたかったと語ったことがある。

 これは黒澤明がその『夢』(90年)で奇妙な寓話的出来事のかずかずを(無意識ではなく)日常的な表層意識でリアリスティックに描くことで「夢の感触」をことごとく失ってしまったのと対照的である。山田勇男は夢をもっと深い無意識層でとらえようとした。単に夢を再現するのでなく、個別の夢をこえてイメージの元型にいたろうとするアプローチはユング的に思えるが、そればかりでなく彼は黒澤明が取り逃がした、夢の消えやすさ、失われやすさ、とらえがたさといった微妙なニュアンスの獲得に神経を集中する。

 この夢の風景、つまり実在しそうにないがどこか懐かしい心象風景は、「素朴な画家」とよばれるナイーブなもしくはプリミティブな画家たちの描く風景を連想させる。札幌に住み続けた山田勇男が寺山修司の映画美術家だったばかりでなく、画家・オブジェ作家でもあり、しかも看板屋のかたわら日曜画家のように映画や美術作品を作ってきたという経歴が、余計そういう連想をさせるのかもしれない。いずれにせよそんな連想を許す映画はじっさいには稀である。山田勇男をべつにすればグルジア生まれのアルメニア人監督セルゲイ・パラジャーノフ(彼も画家・オブジェ作家だった)を思い出せるばかりだ。そして、パラジャーノフと山田勇男には見逃しがたい共通点があるのだ。

 それは、自らの愉しみのために作るといった姿勢、夢や寓話への関心、隠喩的な旅の主題、空間や細部への職人的こだわり、独学者的な孤立(時代や流行からの)といった共通点ばかりでなく、たとえば人物を風景の前に立たせ正面から撮るといった画面上の類似でもある。絵画でいうこの「正面法」はエジプト美術や中世絵画の特徴とされたものだが、現代では「素朴な画家」におおく見られる画法である。多視点のモンタージュで物語を組み立てていく今日のふつうの映画でこうした正面法の多用をみかけることはおよそない。そしてそれと関連するのだろうが、ふたりの映画では映画表現の現代的な手法や話法はことごとく無視されているのだ。演劇的な人物配置、パフォーマンス的な動き、引き伸された時間、風景(自然)の優位、夢や記憶を思わせる断片性、セリフのすくなさ、むやみに動かないキャメラ、オブジェの象徴性とそれによるイメージのつながり(山田のアンモナイトやアメシスト、パラジャーノフのカタツムリ)、そして(プロではない役者によって演じられる)マネキン的な無表情の人物たち。

 こうした特徴は今日の映画文化と異質なばかりか、ふつうにいう「劇映画」を拒絶してさえいる。つまり、劇映画がなにより人間を描き、その心理のつながりで観客を物語に導くとするなら、ここにあるのはそうした心理主義の拒絶なのだ。作者は現実ではなく、頭のなかにあるイメージを現実化しようとしていて、その人物たちも現実ではなくあてどない夢のなかを生きているようなのだ。

 それは夢と同様にプライベートなイメージ体験に観客をさそう。パラジャーノフの『ざくろの色』(71年)は、主人公の修道僧・詩人サヤト・ノヴァを知らぬ者にとっては、幼年期と老いと死をめぐる夢と悔恨の映画にほかならない(実際この映画の冒頭には「どうかこの映画のなかにサヤト・ノヴァの伝記を読み取ろうとしないでください。私たちはただ詩的世界の形象を映画という手段で伝えようとしただけなのです」といった字幕が入る)。美化された幼年期(その究極が天使となる少年だ)、成長の哀しみ。それと似た感情が『アンモナイトのささやきを聞いた』にも流れている。ただパラジャーノフにおける「老い」は、山田勇男にとっては未来(道しるべ、可能性)として残され、むしろ現在の孤立、すべての親密なものからの孤立、が反復される「道」のイメージのなかできわだって描かれている。

 1930年代はじめに寺田寅彦は、俳諧連句と夢の心理の比較(「連句雑俎」)を発展させて、映画なかでも前衛映画の飛躍したイメージの連鎖と夢の特性、そして連句の構造との関連を論じ、「連句的なる非現実映画の可能性」を語ったことがある(「映画芸術」、ともに岩波文庫版『寺田寅彦随筆集』第三巻所収)。そこで彼は「将来もしもここで言うような連句的な前衛映画が培養され発育しうる土地があるとすれば、それはおそらくわが日本のほかにはないであろうと思われる。そうしてそれはおそらくフランス人とロシア人にはいくぶんかは理解されるであろうと思われる」などと予言している。彼が予言したのは、ある種の夢の映像の文体化であり日本独自の実験映画の隆盛であったともいえるのだが、同時にそれはパラジャーノフと山田勇男をつなぐ糸をも予言しているようで興味ぶかい。

 いずれにせよ、このふたりは独自なフォルムで夢に接近することにより、万人共通の普遍的な意味ではなく(夢が見た「私」にとってなにより意味があるような)イメージの「私性」というニュアンスを作品に流しこむのに成功した。そこに山田勇男やパラジャーノフの映画のあまり気づかれていない新しさがある。

 

4 閉じた眼のヴィジョン

 

 パトリック・ボカノウスキーの『YF』というドローイング展を見た(1992年10月、ギャラリー乃木坂)。ボカノウスキーはポーランド系のフランス人で、画家というよりきわめて手のこんだ幻想的実験映画『天使』(82年)や光学的歪像を幻想にまでたかめた『海辺にて』(92年)の作者として知られる。『天使』は、人の無意識の記憶層に貯蔵されたさまざまなイメージを素材にして組み上げたような不思議な映画だ。すべての映像をオプチカル・プリンター(光学焼付機、一般に映画の特撮合成で使う)で再処理してオリジナルの質(現実性)を変えてしまい、またおなじようなイメージを偏執的に反復したりしながら、密室から階段へ、そして巨大な文書保存庫、屋外、光にみちた階段へと展開していく。登場するのは仮面をつけた匿名的人物ばかり、例外的に出てくるヌードの女はガラス張りの密室に閉じこめられている。

 こうした彼の映像作品と『YF』はかなり深い関係があるようだ。YFとはフランス語の"Yeux Fermés" (閉じた眼)の頭文字、つまり、眼を閉じて見たイメージを描こうとした試みである。YFが意味しているのは「見る」ということ(あるいは「ヴィジョン」)の価値転換である。目を開けて見る視覚以外の、夢、空想、記憶などのヴィジョンをも「見る」こと=人間のイメージ体験にふくめよう、いやそちらの方を重視しようとする姿勢だ。ここにも「人間の内的表象の世界」「人間が<内部から>見るもの」(タルコフスキー)への関心がある。ボカノウスキーは外界の忠実な模像などになんの興味もなく、ただ内界のイメージ体験を、その記憶を絵に置き直し、描くことでそのイメージをふたたびたぐりよせようとする。しかも、いわゆるシュルレアリスム絵画とも異質な画風だ。

 そのデッサンはどれも輪郭があいまいである。墨汁(インディアン・インク)を使った風景画は今回展示されなかったが、墨と青と茶色で暗い雲と光を描くターナー的な光景で、風や光の感覚と遠くの人物が印象的である。遠い記憶のなかの風景といった手触りがある。とくにその暗い色調は北方的であると同時に、この作家の想像力の質を伝えて興味ぶかい。一方、パステルによるデッサンではおもにオレンジ、黄、青が使われ、モチーフは女と椅子がほとんどだ。女は太っていてヌードだが、その顔も体の輪郭もはっきりしない。そういう女をなんとか捉えようとするかのようにくりかえしくりかえしデッサンしている。

 記憶を反芻し、目を閉じては思い出し、すこしずつズレていくイメージを追いかけるように、目を開けて(あるいは閉じて)デッサンするといった光景が目にうかぶ。ジョナサン・ボロフスキーのデッサンやデヴィッド・リンチのブラインド・ペインティングの絵も夢の絵画だが、パトリック・ボカノウスキーはそれとは一味ちがった執着をみせる。一過性の夢の内容ではなく、くりかえされる内的イメージから彼は山田勇男のように「元型的なヴィジョン」をさぐろうとしているのかもしれない。いずれにせよ、そのアプローチは彼の映画とぴったりかさなっているのだ。

 

 夢はたえず映画の中にまぎれこんできた。しかし最近ヴィム・ヴェンダースの『夢の涯てまでも』を筆頭に、スティーブン・ソダーバーグ『KAFKA/迷宮の悪夢』、デヴィッド・クローネンバーグ『裸のランチ』、ラース・フォン・トリア『ヨーロッパ』、イアン・セラー『プラハ』など、夢・記憶・幻覚をあつかう「夢的映画」(film onirique) がやたら目につくようになってきた(いずれも91年製作、日本公開は92年)。19世紀末にも西欧の画家が「夢の視覚化」を好んで主題にした時期があったというが、これらの映画にもなんらかの無意識的バイアスがはたらいているようで、その出来不出来をこえて興味をひかれる。従来とはちがった、より主観的・私的なかたちで「閉じた眼のヴィジョン=心のイメージ」が次々とスクリーンに現われ出そうな気配ではある。

 

©西嶋憲生

 

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