1990年代の実験映画/個人映画の女性作家たち
(long version, 2024/25)
(初出、国立映画アーカイブ「NFAJニューズレター」2025年1-3月号、pp.11-12。本稿は国立映画アーカイブの上映企画「日本の女性映画人(3)1990年代」2025年2-3月、に関連して、上映作品以外にも当時の作家たちやその時代背景、評価を解説するために書かれたものだが、初稿が大幅に字数を超えたので短縮して掲載された。本稿はその元となったlong version [未発表]である。)
1990年代に日本の実験映画/個人映画[1]の分野で女性作家が陸続と登場し、斬新で個性的な作品を次々発表したことは記憶されるべき事実である。それは突然沸き起こった一時的現象ではなく、80年代から目立ち始めた動向が噴き出して大きな流れとなり、それが現在にまで続いているのだが、90年代を「女性映像作家の時代」と呼ぶに足るだけの内実がそこにはあったのだった。
たとえば1994年にイメージフォーラムが「日本実験映像40年史」(キリンプラザ大阪、128ページのカタログも作成)として23のプログラムを組んだ時、その最後のプログラムは「女性作家の台頭:90年代」と題され、寺嶋真里、村山夕香子・吉留恵美、浅野由紀、高橋結子、吉田公子、齋藤ユキヱ、上岡文枝の7作品[2]が上映された(他のプログラムにも70-90年代の女性作家作品は含まれていた)。
1995年には中野武蔵野ホールで「すべて女の子カントク」と題して歌川恵子、和田淳子、大月奈都子、河瀨直美ら15名の女性作家の20作品が上映された[3]。
また1998年にかわなかのぶひろ編集の『映像』創刊準備号(イメージフォーラム発行、48ページ、発行はこの号のみ)は「特集・女性映像作家「私の中の私」」として竹藤佳世(インタビュー)、才木浩美、仙頭(河瀨)直美、上岡文枝・三浦淳子・歌川恵子、和田淳子、長屋美保、寺嶋真里・大月奈都子・馬野訓子と11名の女性作家を取り上げ、彼女らを直接指導した作家や批評家が主に執筆した(村山匡一郎・金井勝・筆者=イメージフォーラム映像研究所、鈴木志郎康=多摩美術大学[上野毛校芸術学科、のち映像演劇学科]、松本俊夫=京都芸術短期大学[のち京都造形芸術大学、京都芸術大学])。
2000年に横浜美術館は収蔵映像作品の年代別上映会(3プログラム)を開催し「1990年代作品」では6作品のうち4本が女性作家で、河瀨直美『につつまれて』(92) 、上岡文枝『親不知』(93)、歌川恵子『みみのなかのみず』(94)、齋藤ユキヱ『行き暮れども待ち明かず』(94)、が上映された[4]。
当時の女性作家の主なメディアは8ミリ映画(フィルムの生産・現像は2010年代まで続いていた)で、16ミリやビデオも併用された。その作品は映像学校や急増し始めた大学の映画・映像学科での卒業制作展、イメージフォーラム・フェスティバル(IFF)やぴあフィルムフェスティバル(PFF)のコンペティション、各地の自主上映スペースやギャラリー・美術館等で上映された。詩的な作風からトラウマ的自己表出、アヴァンギャルドな奇抜さまで、その多様な作品群を一括りにはできないが、劇映画ともドキュメンタリーとも違うパーソナルでプライベートな表現を通して自らの身辺を扱ったものが多く、規範的表現をはみ出す創意は魅力的だった。単純にエッセイ的と呼ぶにはどこか挑発的な要素も含み、セルフポートレイトや身体性、自伝性や日記性、日常空間と虚構性、物語性や語りといった要素がよく見受けられた。その背景に、バブル崩壊後の就職氷河期の20代女性の不安定なアイデンティティや当時のミニシアター全盛期の多様なアート的映画の影響も見ることはできるが、それ以上に「映像による表現」へ作者を駆り立てた衝動が感じ取れたのだった。
同時期に写真界で10~20代の女性写真家が一斉に登場し「ガーリーフォト」「女の子写真」などと注目された状況とも類似するが(その代表ともいえる長島有里枝、蜷川実花、HIROMIXの3人は2001年に木村伊兵衛写真賞を最年少で同時受賞した)、映像作品の方がより内省的にも感じられた。
その注目・評価の一例を挙げるなら、イメージフォーラム・フェスティバル(IFF)は実験映画祭(1981-85)をリニューアルし一般公募部門を新設して1987年に始まるが、87-99年の大賞受賞作を見ると、87年『MaMa』江口幸子、89年『おでかけ日記』小口詩子/ビデオ部門『REC ZONE』VISUAL BRAINS[風間正・大津はつね]、91年『緑虫』寺嶋真里、92年『トマトを植えた日』三浦淳子[審査員特別賞『ままん』吉田公子『眠る花』小口詩子]、[93年審査員特別賞『PLATO-NIX』高橋結子、94年審査員特別賞『冬虫夏草』上岡文枝『みみのなかのみず』歌川恵子]、95年『海の花』長屋美保[審査員特別賞『シェヘラザード』岩田知子]、96年『桃色ベビーオイル』和田淳子[特選『窓の外には、雲が流れて』石田美由紀『おふろでおっぱい』岩田知子]、[97年特選『あながちまちがってるともいえない空』才木浩美『孤独の輪郭』三浦淳子]、98年『骨肉思考』竹藤佳世[特選『機能停止』金川貴子]、99年『福田さん』宇田敦子[審査員特別賞『鎖骨の下の』荒牧亮子]、と女性作家の活況に改めて驚かされる。
自身や家族にカメラを向けたパーソナル・ドキュメンタリーの傾向が多いなかで、寺嶋真里は幻想・妄想の世界をオブセッショナルかつ過剰に描く表現主義的作風で異色であり、和田淳子『桃色ベビーオイル』は女性用ワンルームマンションの空間内でヌードの女性が漠然とした不安をナレーションで語り、時代の無意識を捉え象徴する作品だった。彼女らの作品はオーバーハウゼン、バンクーバー、ロッテルダム等の国際映画祭でも紹介された[5]。
同時期のぴあフィルムフェスティバル(PFF)は88年から現在のコンペティション形式となったが、グランプリはその後劇映画監督に進出する男性作家が圧倒的に多く、91年『紫の部分』計良美緒、95年『さようなら映画』大月奈都子(ビデオ,京都芸術短期大学出身)、2001年『モル』タナダユキ(イメージフォーラム映像研究所では『せつなただよう』(98)を制作)と決して多くなかった(入賞作にはIFFと重複して小口詩子、和田淳子、歌川恵子らも)。
なおPFFでは81年(当時はオフシアターシネマ'81)に小口詩子『雨』が入選(日比野幸子推薦)、84年には高校生の風間志織の『0×0(ゼロカケルコトノゼロ)』が入選し初のPFFスカラシップで『イみてーしょん、インテリあ。』(85,16ミリ)を制作した。小口詩子はIFF大賞の後『眠る花』(91)等を撮りつつ多摩美術大学(上野毛校芸術学科,後の映像演劇学科)の助手・非常勤講師、武蔵野美術大学映像学科の教員として後進の女性作家に接したキーパーソンであり、92年には多摩美上野毛校の最初の学外上映会として「セクシャル・スコープ」というテーマの上映会を男組・女組と分けて企画し、翌年大阪・京都の同上映会では女性作家のみの12作品を上映した[6]。
1980年代にも簡単に触れると、80年代前半は個人アニメーションの分野で「アニメーション80」「地球クラブ」等の若手作家集団が生まれ、浅野優子、香織、石田園子(IKIF)、守田法子、横須賀令子、佐々木こづ枝、山元るりこ(京都)といった女性アニメーション作家が活躍。なかでも砂アニメーションの飯面雅子を中心に女性作家だけの催し「雛祭りアニメーション上映会(ピーチ・アニメーション・フェスティバル)」(1983-91)は80年代を通じて毎年3月に開催され、のべ33人もの作家が参加した(しかも東京だけでなく関西、福岡でも上映し盛況だった)。また『ピーチ・アニメーション・コレクション』Vol1,2 (映像舎,VHS,1990頃)として飯面、浅野、横須賀のほか市岡早苗、島由美、岩槻育子の8ミリ16ミリ作品を収録し発売するなど、他の女性アニメ作家上映会(「三月兎のFilm Party」1985,西武船橋店StudioFなど)も含めその集合活動は特筆に値する。最近では2018年に横須賀令子が札幌で「13人の女性アニメ作家たち」という上映会を開催、80-90年代の作品と2010年代の北海道の若手女性作家たちの作品を一堂に上映した。
80年代半ばの個人映画では日記/エッセイ的な作風から秀作が生まれ、坂本崇子の『イブをまつ昼と夜』(84)や元彼を語りながら自身の裸体にその映像を投影する土居晴夏『なかのあなた いまのあなた』(85)などが印象的だったが、木下和子『ヒメムカシヨモギ』(86)、画面と声が乖離した早坂久美子『湖畔』(88)『さんたまりや』(89)、 そして森亜野、小倉千夏らの作品も忘れがたい。
鈴木志郎康は「8ミリ映画の女性作家たち 映像の獲得・身体性・感性」(「月刊イメージフォーラム」1986年12月号/脱=女性映画特集)で坂本、土居、木下らの作品を考察し「ペンを取って何かことばを紙の上に書き始めるところから、文学的表現が始まるわけだが、それと同じように映像表現を出発させている。映画の技術的な側面を飛び越して出発しているのだ。ところが、映像の場合は撮影するために何か対象を選び、それに立ち向かわなくてはならない。(中略)映像表現をしようとすることは、そのままカメラを介して関係を持つということになってしまうのだ」(p.115)と指摘した。カメラを介して私と対象の関係・距離がドラマを生み、特異な形で「作者」を顕現させる個人映画の構造は、90年代の女性作家の表現にもつながっていく。
またこの時期には隣接分野であるビデオアートでも黒塚直子、串山久美子、天利道子、大山麻里、土佐尚子など女性の作家が少なくなかったことを付記しておく。
1990年代日本の実験映画/個人映画の女性作家作品は、すでに再評価・再検証されるべき時期にある。近年のそうした試みとしてバークレー美術館&パシフィック・フィルム・アーカイブ(カリフォルニア大学バークレー校)で2021年10月に行われた上映イベント「1990s Experimental Films in Japan: Women's Anarchic Visions of the Everyday」[7]と翌22年3月にコラボラティブ・カタロギング・ジャパン(CCJ)[8]が10日間オンライン上映したプログラム「Anarchic Visions of Everyday: Women’s Cinematic Experiments in the 1990s」があった。浅野優子『蟻の生活』(94)、齋藤ユキヱ『水ノフルヨルニ』(92/バークレー)『行き暮れども待ち明かず』(94/CCJ)、才木浩美『あながちまちがってるともいえない空』(96)、寺嶋真里『緑虫』(91)、小口詩子『ばら科たんぽぽ』(90)を上映、両企画をミリアム・サムと共同でキュレーションした映画研究者・中根若恵は解説論考で、これらの作品を「アイデンティティの流動性を情緒的にマッピングしていくアプローチを共有しており、バブル経済崩壊後に加速していく疎外的な社会状況を背景に、変わりゆくジェンダーとセクシュアリティのダイナミクスを映画的に考察するひとつの形式」と捉え、そこにしばしば見られる美学的戦略として「作者がカメラの両側(前にも後ろにも)に自身を配すことによって、自己が置かれる状況やその状態そのものを問題化したり、セルフイメージを虚構的に構築していくプロセスや、そのイメージの変形可能性を強調する」ことを指摘した[9]。今後もこうした上映や読み直しがさらに進むことを期待したい。
(付記1)本文では触れられなかったが、80年代の動きは70年代とつながっており、70年代の女性映像作家にはパイオニアというべき出光真子以外に田中未知、飯村昭子、道下匡子らがいて、『タラッサ』(88)で知られる乙部聖子は東京藝術大学在学中の70年代前半から『Return to Forever』(72)『白蓮華』(74)などを制作し、先述の「雛祭りアニメーション上映会」にも参加していた。初期のビデオアート関係ではビデオギャラリーSCANの中谷芙二子のほか、当時の資料には松下章子や道下匡子の名もよく見かける。道下匡子は映像作家というより、東京アメリカンセンターで実験映画や現代美術の企画をしながら、グロリア・スタイネムの翻訳を行ったり折に触れた発言などで、アクティブなフェミニストとして知られる存在だった。
イメージフォーラムが1977年に四谷三丁目にオフィスと上映スペースを移した時に付属映像研究所を開設したことは、80年代から現在にまで至る実験映画/個人映画作家の育成にとって重要な布石となったが、その1期生には和田辛子[しんこ](『エピダウロスの窓』『イヨマンテの夜』79)や古市弥生(『魚の家』79)がいて、作品制作だけでなく上映会や雑誌出版(『緑水光 RaMuNe』『フィルム・メーカーズ』[1号は女性作家特集])などアクティブな活動を行なったことも忘れてはならない。
(付記2)富士写真フイルムが1965年に「フジカシングル8」を発売した時のTVCMは女性をターゲットにしたものだった。扇千景演じる主婦が「マガジン、ポン」で「私にも写せます」とこちらにカメラを向け、「あとはボタンを押すだけ」「とっても簡単なんですよ」と語りかける。軽量・手軽・簡単操作が強調され、CM内で家族の姿を撮るのも父親ではなく母親の方だった。キヤノンなど他社の8ミリカメラでもカタログ類でしばしば若い女性の写真が使われていたと記憶する。
ⓒ西嶋憲生
[1]「実験映画」と「個人映画」という用語は、重なり合う部分があって完全に区別するのは難しいが、ニュアンスは明らかに異なる言葉である(同じ作品に対して使われたり、上映会や映画祭で両者が混ざって上映されることも多い)。「実験映画」は1960年代のアメリカ実験映画(いわゆるアンダーグラウンド映画)の影響下に、形式の実験・探究を伴った作品を主に指し、一方「個人映画」は個人で作る映画を指し、"画家や詩人やミュージシャンのように" 個人で作品を制作することに力点があった。また作者が「自分自身を語る映画」というニュアンスで使われることもあった。個人映画という言葉を使い始めたのは、実験映画のかわなかのぶひろや日記/エッセイ映画の鈴木志郎康だったと記憶する。
[2] 寺嶋真里『夢のとりで』(91,ビデオ)、村山夕香子・吉留恵美『平らな肉』(92,16ミリ)、浅野由紀『Life as a Worker Ant』(92,8ミリ)、高橋結子『Plato(eau)-nix』(92,ビデオ)、吉田公子『肉体のお話』(93,16ミリ)、齋藤ユキヱ『かげのあかり』(94,16ミリ)、上岡文枝『冬虫夏草』(94,16ミリ)
[3] 歌川『カルデラ姫』『超愛人』『似物(にもの)』、和田『閉所嗜好症』『桃色ベビーオイル』、大月『S.I.D.S.』『さようなら映画』、河瀨『につつまれて』のほか、上岡『谺-海月の塔にて』、齋藤『行き暮れども待ち明かず』、長屋美保『海の花』、青木英美『雪はそれ故に眠られる』、富永舞『くろこげ』、安藤木聖+山内晃『ものごころ』新藤朝子『GIDEON'S AFTERNOON』、朝生賀子『パアプリンプウ』、、隈井朝子『To Mayu』宮坂隆子『常世の恋人』、渋谷徳子(のり子)『遠くの雨』『リハビリテーション』
[4] 横浜美術館はすでに98年に「「私」という存在を見据え、映画表現の可能性を試みた個人映画を特集上映」として「映画になった「私」」という上映会を3プログラム組み、1プログラムは鈴木志郎康作品、1プログラムは江口幸子『MaMa』(87)、吉田公子『ままん』(92) 、河瀨直美『につつまれて』(92)、もう1プログラムは原田一平作品と歌川恵子『みみのなかのみず』(94)を上映していた。8ミリ作品は16ミリ版で収蔵・上映。
[5] 寺嶋真里は90年代IFFの常連招待作家となり『女王陛下のポリエステル犬』(94)等を発表。また愛知芸術文化センターの[映像と身体をテーマとする]委嘱作品として和田淳子は『ボディドロップアスファルト』(2000, 96分)、寺嶋真里は『アリスが落ちた穴の中 Dark Märchen Show!!』(2009, 58分)を制作した。
[6] 1993年4月、ヴォワイヤン・シネマテーク主催で大阪サンケイ会館3Fと京都真空クラブで上映。上映作品は、田村英里子『YO-YO JAMING』、清水真理『Poison with your eyes』、高橋結子『Plato(eau)-nix』、村上なほ『川底の鳥』、原川玲美『Spaghetti スパゲッティ』、浅野由紀『Life as a Worker Ant』、上岡文枝『日曜日の夕方』、歌川恵子『似物』、村山夕香子・吉留恵美『平らな肉』、中村千晶『老人王』、小口詩子『ばら科たんぽぽ』『眠る花』(東京Cプログラム女組のうち8本に田村、村山・吉留の2本追加+小口作品2本)
[7] https://bampfa.org/event/1990s-experimental-film-japan-womens-anarchic-visions-everyday
[8] コラボラティブ・カタロギング・ジャパン(Collaborative Cataloging Japan)は米国フィラデルフィアを拠点に戦後日本の実験映画・ビデオ作品のカタログ化と保存をミッションとする非営利団体。https://www.collabjapan.org 「Anarchic Visions of Everyday: Women’s Cinematic Experiments in the 1990s」はCCJのViewing Siteで2022/3/18-27にオンライン上映された。
[9] Wakae Nakane,"We’ve got to find the next step: Women's Cinematic Experiments in 1990s Japan", 2022. https://www.collabjapan.org/essay-weve-got-to-find-the-next-step(訳文は著者自身による)
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