光のレミニッセンス──坂本崇子のために(初稿,1990)
(初出、拙著『生まれつつある映像 実験映画の作家たち』文彩社、1991年、pp.98-105の初稿[最終稿には小見出し等がない]。その原形となる文章として「月刊イメージフォーラム」1985年3月号[ベストワン 映像1984]のベストワン評およびそれに先立って同誌1984年5月号に書いた「大久保フィルム第2回上映会 坂本崇子の日記映画が心にしみた……」がある。『イブをまつ昼と夜』がすでに40年前の8ミリ作品であることに驚きを禁じ得ない。)
日記映画のもつプライベートな感触ということで忘れることのできない体験が、坂本崇子の『イブをまつ昼と夜』(84年)であった。
坂本崇子は8ミリで極端なクロースアップを多用したサイレント作品『歩行』(82年)の作家として知っていたが、それはカメラのファインダーを通して世界に触れる(見るというよりも)という誕生期の映像作家の視覚を伝えているものの作者の思考や感情の表現としては不充分なものだった。84年2月、「第2回大久保フィルム上映会」で見た2作での作家としての成長ぶりはめざましく、個人映画のみが到達しうる感動的な瞬間に出会った歓びで僕はこの作家にすっかり夢中になってしまった。14分の小品『Cook』(84年)は家庭教師でついていた思春期痩せ症の女の子がモチーフとあとで知ったが、台所でトマトを切ったり魚をさばいたりフィックスのカメラで撮るのだが、ピンボケやスローモーションで撮られた包丁のアップが妙になまめかしく、そこに作者の描写力・映画的エクリチュールの力を感じたのだった。
さらに42分に『イブをまつ昼と夜』になると、表現のシンプルな力強さは圧倒的で、身辺の生活世界を捉えるフレームが世界と彼女の関わりを描写する雄弁な窓となり、囁くようなナレーションが映像と自分の距離の確認になっている。この映像と音で綴られた「日記の試み」に、作者のそのときどきの思考や印象、そしてかけがえのない<心の動き>が浮び出てくるにつれ、なぜか激しい感動を禁じえなかった。
表現には少しも気張ったところがなくしごく自然体なのだが、わけもなく切ないところがある。この作者が生きていることの切なさのようなものだ。写されたものとナレーションとが、撮る「私」の感情をいざなっていく。それがいかにもさりげなく自然になされてしまっていることの驚き。人為的に組み立てる映像の中に彼女自身の普通の感覚・自然な感情を素直に表出できてしまう不思議。詩や小説にはあったかもしれないが、映画でこんな感触を味わったことがあっただろうか、と僕は思った。キラキラと輝くようなオリジナルな才能であった。
この映画の中で作者は人間を正面から撮ることができず、猫を撮ったり階段を撮ったり電線を撮ったりする。一年ぶりに会った男性の友人も後ろから追いかけるように撮る(ナレーションは「うまくしゃべれなかった」と語る)。その映像を作者はシーツ(あるいはブラウスか)に投影し、その像に手で触れようとする。映像の再撮影という間接化が、逆に作者の直接的な表出となっている。こんなダイレクトで官能的でさえあるカットがふいに出現することに衝撃をうけた。やがて作者は終結部でカメラを通勤電車の車内の人々に向け、他者との関係もしくは距離を見出そうとする(ここに山下達郎の軽快な「クリスマス・イブ」が流れる)。一人の人間がカメラを持ち人を撮るという出来事を、これほど内面的に表現できてしまうということが新鮮であった。
☆はじまりの意識
8ミリ映画は小さい。カメラ、フィルムのコマ、スクリーン、上映空間。すべて小さい。小さいものは人をわくわくさせる。貴重なものはみな小さい。
映画は誤った自己意識から巨大・壮大・尊大なものに憧れた。しかし、もとをただせばそんな偉ぶったものじゃない。リュミエール兄弟が1895年12月28日にパリのグランカフェで最初の有料公開を行なったとき、その上映室は地下の小さな部屋で、観客も35人入れば満員といった広さだったという。何と我々に馴染ぶかい広さと人数であることか(ジャック・リトー= ユティネ『最初の映画 リュミエール兄弟とそのキャメラマン』シャン・ヴァロン出版、1985、などによる)。
リュミエール兄弟が上映したのは、工場の出口から帰宅する人々、魚釣り、庭師、食事、広場、海などの短いスケッチだった。のちに、ジョナス・メカスが日記フィルムをまとめた最初の試み『ウォルデン』の冒頭に「リュミエールに捧ぐ」と記したのは、まさにあの小さな出自を讃えるためではなかったか。
いまカメラを手にしたとき、自然にこうしたはじまりに、単純さに、小ささに戻りうる人は稀である。小さな事柄のためにフィルムを回せる人は幸せである。
坂本崇子の8ミリ映画に感じられる新鮮さ、すがすがしさ、シンプルな力強さは、こうした「100年後のリュミエール」(ジョナス・メカス)に特有な資質だと思う。
☆透明な距離
リュミエールが撮らなかったもの、いや撮りえなかったもの。それが<視線>だ。固定されたカメラはすでに<視点>を持ってはいた。しかし、帰宅する労働者に対する撮り手の<視線>を感じさせてはくれない。カメラと写される人々の間にはただぽっかりと物理的な距離が開いている。あまりにもあからさまで、その距離が何の意味も含まないパブリックな眼なのだ。
ところがその映像を我々が「見る」とき、我々と撮られた人々の間には、もっと違った不思議な距離ができあがってくる。その隠微な距離、プライベートなまなざし。そのとき、視線は映像に浮上してくるのだ。
「距離とは一つの操作である」(M・デュシャン)
坂本崇子の映画は、プライベートな視線の映画、とりわけ距離の映画だ。
それは作者の見つめる視線と心持ちを語る言葉と、つまり「眼」と「声」とのフィルムと思われがちだが、それだけではあの透明さに至らない。坂本崇子のカメラは当初から、執拗に接近する。撮る対象に眼がくっつきそうなまでに。その接触面で触覚的に眼が表面をこするかのように。
視点から視線へ、そして視面へ。眼による愛撫、触覚のエロティスム。
そこでは<映像>が突出し、印象に残る。イメージフォーラム映像研究所の卒業制作展で見た『歩行 81・10・14〜82・1・14 』(82年)や『震う果実』(83年)は習作だが、いくつかのカット、金網の蜘蛛の巣、円盤投げをする少女、ミミズ、おばあさんといった映像が妙に鮮明な視線の映像としていまも記憶に残る。作者の眼は撮られた対象に「たどりつく」のだ。見ることのその透明な距離に──。
☆独身者と恋愛
距離とはすぐれて独身者的な主題である。それにふさわしくリュミエール的な距離は消失し、別の距離が透明さの中から立ち現われる。
『イブをまつ昼と夜』の不思議に魅力的な一カット、男の友人を後ろから撮った映像を自室で白いシーツらしき布に投影し、その映像を手でなぞろうとするあのカットの(あるいはまなざしの)意味とは何だろう? 遠いけれど直接的、密着しているのに限りなく遠い。そんな距離とは。
たとえば恋愛において自然発生するのはそんな距離ではなかったか。あるいは、夢や記憶のなかの距離。いずれも夢想的で映像的なそうした捕まえがたい距離の体験、イリュージョン特有の逆説的な距離を生きてみる体験。そんな行為が彼女の映画の中心を占めるのではないか。彼女の「眼」はただの視線にとどまらず、ひとつの行為になる。関係や距離をめぐる彼女の映像は、つねに行為にのみこまれ、包みこまれる。それがあの直接性の意味だ。
坂本崇子の映画が、猫や父親を語っていてもいつも恋愛映画のようにラブソングのように思えるのは、たぶんその「遠いけれど直接的」な距離ゆえなのだ。
☆冬の光、夜の焔
「眼と声」のフィルムとして思い出されるのは、マルグリット・デュラスの美しい映画の数々である。たとえば『陰画(ネガ)の手』(79年)。アミ・フラメールのバイオリンにのって、夜から明け方のパリの街路をピエール・ロムのカメラがゆっくりゆっくりと進む。グリッスマン(glissement)、なめらかな横滑り。気をつけて見ると映っているのは道端のゴミ、そしてそれを片付ける労働者や掃除夫。みなアフリカ系やアラブ系の移民労働者だ。白人のいない黒人のパリ。彼らは白人が街に現われる頃、どこへともなく消えてしまう。ナレーターの「私」は三万年前の洞窟に描かれていた「ネガの手(黒い手)」を思い出す。黒い労働者の手、それは昼のパリを支配する白人の白い手の陰画だ。ネガとポジ、表と裏。パリの上に現出する奴隷と植民地に、その被抑圧者の手に「私」は激しく愛を叫ぶ。
機械的なまでにスムースな移動を展開する映像。その厳格な距離。そしてその現実に身をよせ愛撫しようとする声の力。しかしそれは果たせない。声は画面外(オフ)のどことも知れぬ世界に属し、いつまでも映像にたどりつけないのだ。『インディア・ソング』の亡者の声のように。イマジネールな「場」での距離の苦しみ。
デュラスの明け方の光。それは坂本崇子にとっての冬の光ではないか、と思う。季節に属さぬ声が見ている冬の光のなかの情景。さらさらとした冬の光は『イブをまつ昼と夜』の、そしてとりわけ『耳のあたり3cm』(85年)のモチーフとさえ思われる。距離というモチーフと冬の光が、見るものすべてに投影されているのだ。
そして、夜。画面外の声の棲みかである闇の中で、冬の光は別の光のもとで再生する。カタカタという映写機の音、小さなスクリーンのおぼろげな光。ファンタスマゴリアの、蝋燭の焔としての映像。
「焔の凝視は原初の夢想を永続させる」(ガストン・バシュラール)
月の夜。焔の夢想、光の追 憶。映像。
ⓒ西嶋憲生