遠くから中田絹沙が小走りでこちらに近寄ってくる。
芝生に寝転びながら、僕はぼんやりと目を開き、一年下の女性社員が嬉しそうに近づいてくる姿を見つめた。
そして、無意識のうちに、彼女に背を向けるように寝返りを打った。
雲一つ見当たらない青空、すぐそばに感じられる海の気配。
眩しい太陽から逃げるように、再び目を閉じる僕。
「お待たせ!」
近づいてきた足音、僕の背を叩く手、そして、はしゃぐような彼女の声。
そんなものを全て無視し、僕は目を閉じ続けた。
「小沢さんってば。ねえ・・・、寝ちゃったんですか?」
激しく体を揺すられ、僕はそれ以上、目を閉じているわけにはいかなかった。
「寝てないよ。起きてるよ」
「お待たせしました」
「いや、別に待ってないけど。なんならもっとゆっくりでもよかったよ」
「んもう・・・、いけずぅ〜」
「まる子か、お前は」
公園入り口付近にある売店から戻ってきた彼女は、その手にペットボトルを2本持っていた。
「小沢さん、はい、これ。どっちがいいですか?」
「どっちでもいいよ、俺は」
「あ、そう。じゃあ、私はこれ」
土曜日の午後。
葛西臨海公園の芝生広場は、家族連れや学生のグループ、そしてカップルで賑わっていた。
なんでこんなとこにいるんだろうな・・・。
僕はそんなことを思いながら、彼女と並んで芝生に座り、マスカットサイダーをゆっくりと飲んだ。
「明日の土曜日、一日付き合ってください」
昨夜、そんなLINEメッセージを一方的に僕に送ってきた中田絹沙。
地方出身の僕は、アパートに一人暮らし。
彼女がいるわけでもなく、週末はたいていはのんびり過ごしていた。
そう、週末は僕にとって貴重な休息タイムなのだ。
「小沢くん、まだやってないの、これ?」
「ねえ、どうなってるのよ、こことの商品追加交渉? アップデートがまるでないんだけど」
美しくも、鬼のように厳しい人妻課長。
毎日武川課長に追い詰められている僕には、週末の自由な時間が唯一息をつけるときだった。
だが、今日は違う。
わけのわからないまま、僕は「不思議ちゃん」とオフィスで評判の新人、中田絹沙のマイペースに巻き込まれ、土曜日を彼女と過ごすことになった。
「付き合うのはいいけどさ、どこに行けばいいんだい?」
この日、東京駅で待ち合わせした彼女と会うなり、僕はそう聞いた。
「葛西にでも行きませんか?」
「葛西?」
「公園。私、一度デートで行ってみたかったんです、広〜い芝生がある公園に」
「で、デートってお前なあ・・・」
汗ばむほどの陽光を感じながら、僕は周囲で遊ぶ家族連れの姿を見つめた。
こんな風に週末に公園に来るなんて、いったいいつ以来だろうな。
しかも女の子と一緒にだなんて。
高校、そして大学時代、僕はそれなりに楽しく過ごしてきたが、特定の女の子と交際することはほとんどなかった。
「小沢さん」
「えっ?」
「何考えてるんですか?」
「何って別に」
座ったまま、僕に擦り寄ってくる中田は、まるで母親のような視線で僕をまじまじと見つめた。
「な、なんだよ、お前、気持ち悪いな」
「ひ、ひどい・・・・」
言葉とは裏腹に、彼女はすべてわかっているとでもいうような顔つきで、笑みを浮かべる。
「課長のことでしょう」
「な、なんだよ、急に」
「小沢さん。課長のこと、考えてたんでしょう」
「ち、違うよ」
彼女の追求に、僕は思わず顔を赤らめ、マスカットサイダーをがぶ飲みした。
「好きなんですか?」
口にした液体を吐き出してしまうほどに、僕は思わず咳き込んだ。
「課長のこと、好きなんでしょう、小沢さん」
「お前、何バカなこと言ってるんだよ」
ますます顔を赤くしてしまう僕。
「小沢さん、知ってますか?」
「な、何を」
「小沢さん、い〜っつも課長のこと見つめてるってこと」
「えっ?」
「オフィスでいつも課長のこと見つめて。いったい、何想像してるんですか? どうせ、エッチなこと想像してるんでしょう、小沢さん」
「お、おい・・・、濡れ衣だぞ、そんなの・・・・」
犯罪を指摘された容疑者がするような言い訳を口にしながら、僕は「不思議ちゃん」に見事に事実を見透かされていることを知った。
全身から色気を溢れさせ、スタイル抜群の課長。
盛り上がった胸、そして熟れた太腿を密かに見つめ、僕はいつも課長の服を脱がすことを想像していた。
「駄目っ、小沢くん、こんなところで・・・・」
「我慢できないんです、課長・・・・」
「いやんっ・・・・、駄目っ、そこは・・・・、あっ・・・・、あんっ・・・・」
傍に座る中田が、軽蔑するように目を細めてじっと見つめていることに、僕はしばらく気づかなかった。
「小沢さん」
「は、はい?」
「人妻ですよ、課長」
「知ってるさ」
「無駄ですからね、課長を狙っても」
「狙うわけないだろ、課長を。あんな怖い人」
「ふふふ、それもそうですね」
生茶をおいしそうに飲んだ後、中田が笑顔を浮かべて立ち上がる。
「ねえ、小沢さん、これ、一緒にやりましょうよ」
バッグから取り出したものを僕に見せ、準備体操するかのように彼女は肢体を動かした。
それは、白いフリスビーだった。
子供の頃、僕が少し遊んだことのあるそれと比較して、かなり大きなサイズの円盤だ。
「フリスビー?」
「違います。フライングディスクです」
「フライングディスク・・・」
「私、大学でこれやってたんです。ほら、座ってないで早く立ってください」
僕の手を引いて立ち上がらせた彼女は、それを持ったまま、数メートル向こうに歩いて行った。
そのとき、僕は気づいた。
中田絹沙もまた、よく見ると、なかなか魅力的なスタイルの女性であることに。