「課長・・・」
土曜日の朝、午前6時過ぎ。
新宿超高級外資系ホテルロビーフロアに、人影はまだ少なかった。
屋外から差し込む早朝の陽光が注ぐ空間には、どこまでも平和でゆったりとした週末の雰囲気が漂っている。
唐突に開いたエレベーターの向こう側から姿を見せた理沙課長は、そんなフロアを突っ切るように早足で歩いていく。
「ちょっと、課長・・・」
かすかに感じていた眠気を吹き飛ばし、ソファから立ち上がった僕は、慌てて課長の後を追う。
僕の声は届いているはずなのに立ち止まろうともせず、ただまっすぐ歩き続ける理沙課長。
まるで、このホテルで経験した一夜を全て忘れ去ろうとでもするかのように。
嫌な予感がした。
「課長、待ってください!」
声を荒げた僕に今更気づいたかのように、課長はフロア中央でようやく立ち止まった。
振り返り、黙ったまま僕を見つめる理沙課長。
いつもと変わらない美貌、そして隠しきれない抜群のスタイルを誇る美しい女上司が、そこにいた。
シックなスーツ姿には一糸の乱れもない。
だけど、僕は何かが違うことに気づいた。
黙ったまま、何かを伝えようとするように、至近距離から僕を見つめてくる課長の瞳。
いつものように男たちを挑発するような色は、今はない。
その代わり、誰かに助けを求めるかのようなか弱い光、そして人妻の涙の名残がそこにあった。
「小沢くん・・・・」
「・・・・」
「帰っててもよかったのに」
どこか突き放すような課長の言葉に、僕は少し熱くなった。
「帰れるわけありません」
「・・・・」
「課長が大変な目にあうってときに・・・・」
「あなたには関係ないことよ」
クールな口調で、しかし何かを隠すような様子で答える課長。
その言葉に、僕は更に声を大きくした。
「関係ないなんて言わないでくださいよ!」
「小沢くん・・・・」
「僕は・・・・、僕は課長のことが・・・・、好きなんですから・・・・」
口にしてしまった課長への愛の告白。
自分でも戸惑いながら、だけど、僕はそれを否定しようとはしなかった。
「大好きな女性がひどい目にあうっていう夜に、帰れるわけないじゃないですか」
生まれて初めてというくらいの勢いで素直な感情をぶちまける僕に、しかし理沙課長は冷たい笑みを浮かべるだけだ。
「小沢くん、私には主人がいるのよ」
「・・・・」
「それに、私はあなたのことなんか何とも思ってないわ」
「か、課長・・・・」
「中田さんがいるじゃない、あなたには・・・・。じゃあ、私は行くわね」
潤んだ課長の瞳から、涙がこぼれ落ちそうになっていることを僕は知った。
それを隠すように無理に顔を背け、理沙課長は新宿中央公園に面した出口に向かって再び歩き始める。
「ちょっと、待ってください・・・・」
熱くなったまま再び駆け出した僕は、課長の肩を掴み、前を塞ぐようにして立った。
「どいてよ、小沢くん、私、帰るんだから」
「どきません」
「いいからそこをどいて。私、早く眠りたいのよ、全然寝てないんだから・・・・」
その瞬間、課長はその科白を慌てて取り消そうとするかのように、美しい表情を曇らせた。
「寝てないってどういうことですか、課長?」
「・・・・」
「まさか、あの男と朝までずっと一緒に」
「ねえ、どいてよ、小沢くん!」
押し除けるように伸ばしてきた課長の細い手首を、僕は掴んだ。
そして、ずっとためらっていた言葉を課長に投げる。
「課長、したんですか、あの男と」
「・・・・」
「教えてください、課長」
「あなたには関係ない・・・・」
「関係あります!」
フロントデスクの向こう側にいる制服姿の女性社員が、ちらっと僕たちのことを見つめた。
朝っぱらから何揉めてんですか、あんたたち、っていう冷ややかな彼女の視線を無視し、言葉を続ける僕。
「したんですね、課長」
僕に強く手首を掴まれたまま、課長は観念し、そしてどこか開き直るかのように口を開いた。
「ええ、したわ」
「課長・・・・」
「抱かれたわよ、彼に。朝まで何回も」
「・・・・」
「小沢くん、私、約束を守ることができなかったわ」
「・・・・」
「彼に何をされても、絶対にいい気持ちになったりなんかしないっていう約束」
呆然とする僕の手から腕を振り解き、課長は大きく息を吐いて服装を整える。
「彼、想像以上に凄かったから、私、最後の最後で我慢できなくなっちゃって」
「・・・・」
「ベッドだけじゃなくて、彼、シャワールームにまで入ってくるんだから」
その瞬間、僕の中で何かが音を立てて切れた。
気がついた時、僕は課長の頬に強力なビンタを見舞っていた。
「・・・・」
怪しげに絡み続ける若い男に頬を激しくぶたれた女性を守るように、屈強な男性ホテルスタッフがすっ飛んでくる。
「君、何をしてるんだ!」
立ち尽くす僕をとっ捕まえて、引きずっていこうとするスタッフに、課長は頬を押さえたまま小さな声で言った。
「すみません、いいんです」
「えっ?」
「構いません、私が悪いんですから・・・・。離してやってください、彼を・・・・」
「本当に大丈夫ですか、お客様?」
課長の頬は、無惨に赤く染まっている。
僕の行為に与えられたショックを隠すこともできず、課長は少女のように表情を崩している。
だが、どうにかホテルスタッフに答えた。
「ええ、大丈夫です・・・・、彼は少しも悪くないですから」
そこまでどうにか言うと、課長は僕を置き去りにして再び背を向け、歩き始めた。
「課長・・・・、すみません・・・・」
自分がしてしまった行為を受け止めることができないまま、そんな陳腐な謝罪の言葉を口にすることしかできない若すぎる僕。
課長が振り向くことはもうなかった。
理沙課長、待ってください・・・・・
その後ろ姿から、僕は課長が泣きながら遠ざかっていくことを知った。
課長、お願いです、僕を置いていかないでください・・・・
後を追う気力もなくし、僕はただ、閑散とした朝のロビーフロアに立ち尽くす。
その時の僕は、まだ知らなかった。
課長がそのまま僕を置き去りにして、ずっと遠くの場所に行ってしまうことを・・・・。