十七夜千手院 | 崋山神社 宮司のブログ

崋山神社 宮司のブログ

御神事から社頭の出来事、時には兼務社の神事芸能までご紹介しております。

十七谷千手院

江戸時代の田原藩では千手院こそ田原修験道の中心的な存在であったと言っても過言ではないでしょう。元禄十二年(1699)には御領内各村から依頼されて殿様の前厄御祈祷をしています。元禄十七年(1704)にはお殿様の新調された御幕の加持祈祷を執行しており田原三宅家治政の早い段階から代々藩主の崇敬篤かったことは間違いありません。前述の新町薬師でも大行院他の山伏でもなく青龍院(千手院になる前の院号)に祈祷を依頼しているのです。彼が田原領において他の山伏とは異なる特別な存在であったことを思わせます。宝永八年(1711)境内を十七谷から八軒家に移して、青龍院から養源院に代替わりした頃からさらに寺院に勢いがついたようです。大峯入(大峯での修行)した養源院が千手院の院号を授けられ、当山派(真言宗系)修験道最高の位である法印となって田原へ帰ってきます。その後も観音開帳、お殿様の参勤道中安全の御祈祷など活躍の事績が田原藩日記にどの山伏よりも多く記載されています。残念ながら彼は実子をもうけることが出来なかったのか一旦代は途絶えてしまうものの、享保十一年(1726)に浜松から永寿院(二十八歳)を迎え養子として相続させる事になりました。彼は相当優秀だったらしく峰入り後千手院の院号を授与されたことは勿論、渥美郡触頭の役職に任命されました。触頭(帳元)とは一定の地区の山伏の頭領、親玉という地位です。この役職は素行の悪い他の山伏を追放できるほどの権限を持っていました。実際田原藩日記の宝暦十一年萬留帳に、素行不良の水川村の山伏を三河国から追放したという記事がありました。象徴的なのは席次です。享保十四年(1729)御用留書に正月御礼(御城で藩主に正月のご挨拶をする儀式)の席次が記されており、御敷居内に八軒家千手院、敷居外八軒家東覚院、同所大行院とありました。また、右千手院は山伏の触頭に任命されたのでこの席順になったともありました。この敷居の内か外かは非常に重要で、殿様から千手院が田原の山伏の長であることを正式に認められた事を意味しています。ここに来て千手院系山伏の田原での地位は頂点に達したと言っていいでしょう。結局この触頭の地位と千手院の院号は代々受け継がれ幕末あたりまで修験寺院として存続したようです。嘉永三年(1850)御入部御礼順席に十七谷山伏千手院とありました。

この千手院のもう一つの特権的地位を示すものとしては蔵王権現宮(御家中総氏神)と東照宮の臨時の別当(仮の宮司役)を任されていたことです。正規の宮司の田原神明社金田氏が不法行為をして宮司職を罷免される度に、臨時で宮司役を引き受けていたことです。神主に故障があったら他の神主が代理として神事に奉仕するところ、山伏が代わりに奉仕していたのです。このようなケースは他藩ではあまり考えられないことなのではないでしょうか。理由は定かではありません。ただ、想像するに御城下総鎮守として広大な社有地を持ち経済的に他の神主を圧倒していた神明社家金田氏の代わりを務められるのは千手院だけだったのかもしれません。実際、享保十七年萬留帳に養宝院、凉善院二人の弟子の寒行願いが出された記事が見えます。千手院には常時数人の弟子がいたことが伺えます。また、寛延二年(1749)萬留帳に百々村―仙谷院、大久保村―龍宝院、水川村―宝龍院、高松村―高松院、越戸村―文殊院と複数の山伏を伴僧として動員して柴燈護摩供を盛大に執行したという記事がありました。天保六年(1835)には当時宮司役を務めていた蔵王権現宮で豊漁祈願の大柴燈護摩供を支配下総勢十三人の山伏とともに執行しています。江戸時代、御宝前で読経したのは勿論、御神前で祝詞も奏上した修験者です。且つ、これだけの組織力があれば本務の修験寺院のみならず複数の神社の神事を請け負うことなど容易いことだったでしょう。

八軒家時代の千手院の所在地ははっきりしていません。十七谷観音の境内は文化五年家中住宅地図に、

とあり、また幕末の住宅地図に

とありました。田原藩士の住宅地のただ中に在住していたといって良いでしょう。天保八年(1837)には十七谷千手院境内にある雨宝童子のお堂に御家老、御用人から町廻などの下役人、果ては町庄屋、村役人まで参籠して雨乞い祈願が行われています。田原藩士や田原町民と修験者との距離関係が近かったことが分かります。特に代々の千手院は江戸期を通して田原の修験道の中心にあって圧倒的な存在として君臨した山伏でした。

こちらは藤七原地区の氏神、松尾社です。寛政八年(1796)の棟札に「法主十七夜 千手院智尊敬白」、安政二年の棟札に「法主十七夜山鎮座 千手院験院 法印学如」とありました。御遷宮は専門的な作法、知識を必要とするため期間限定で庄屋や鍵取(代々神主役を務めた村人)から御遷宮の指導者役並びに遷宮斎主を頼まれたものと思われます。神社なのに新町八幡社や田原神明社の神主を頼まず山伏に頼んでいるのです。神主(社家)よりやや地位が低かったので敷居が低く、予算的にも頼みやすかったのでしょうか。いずれにしろ雨乞い御祈祷から氏神奉仕まで非常に幅広く請け負っていたことがわかります。千手院の勢威の程が伺える棟札だと思います。社殿もどことなく修験道の雰囲気を感じるのは私だけでしょうか。現在跡形もなくなってしまった十七夜の観音堂もこれに近い雰囲気を持っていたのかもしれません。そう考えて改めて見ると感慨深いものがありました。