田原の山伏―総論― | 崋山神社 宮司のブログ

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御神事から社頭の出来事、時には兼務社の神事芸能までご紹介しております。

先ずは江戸時代の宗教事情から。江戸時代は大きく分けて三つの宗教がありました。一つは仏教、もう一つは神道、そして修験(しゅげん)(どう)です。元々あった山中を他界や異界とする日本の山岳信仰に仏教、特に密教や道教、陰陽道(おんみょうどう)が習合して(えんの)小角(おづぬ)が完成させたと言われるのが修験道です。その修験道の宗教家のことを山中に伏すが如く修行を重ねていたため山伏と言っていました。格好はこんな感じです。

頭には()(きん)、右手には(しゃく)(じょう)、左手は印を結んでいます。肩には鈴懸(すずかけ)をかけ旅装束に近い格好しています。これに法螺貝が加われば山伏の完全形態となります。山中を移動して修行していたためこのような格好になったのでしょう。狩衣の神主や袈裟のお坊さんとは明らかに違った格好ですね。儀式上の特徴としては何と言っても(さい)(とう)護摩(ごま)です。屋外で行う大規模な護摩(ごま)加持(かじ))祈祷のことです。境内地の開けたところで柴や薪で壇を築き、火を付け巨大な火柱が上がり読経が行われる中、願意の書かれた護摩木を投入し所願成就、病魔退散、災厄消除などを祈る儀式です。もう一つの特徴は山中、特に大峰(おおみね)(さん)系での厳しい修行を何度も重ね阿闍(あじゃ)()、法印などの位を得ていたことです。修行を重ねる度に山伏としての民を救う超自然的な特別な力(法力、験力(げんりき))が増すとされていました。ご本尊は蔵王(ざおう)権現(ごんげん)大菩薩(だいぼさつ)です。神屋(かみや)といわれる修験寺院(お堂)にそのご本尊や(わき)()として青面(しょうめん)金剛(こんごう)雨宝童子(うほうどうじ)などを祀り日々祈りを捧げていました。

田原町には江戸時代前期から中期あたりまで、概ね四つの系統の山伏の名跡がありました。㋐新町薬師系、㋑八軒家稲荷社系東学院、㋒八軒家稲荷社系大行院、㋓十七夜千手院系です。山伏名跡とは代々受け継ぐことが藩主から許された家名のことです。この四つの系統を簡単に紹介しますと㋐の新町薬師系は文字通り新町に存在した山伏寺院です。引っ越しの多かった他の山伏に対して珍しく江戸期を通して新町に存在し続けた修験寺院です。㋑と㋒は独自の神屋を持ちつつ文字通り八軒家と山の寺の氏神である稲荷社に奉仕した山伏の系統でした。㋓の千手院系統の山伏は一時期八軒家に神屋と居宅を移したものの主に江戸時代を通じて十七夜(谷)を本拠として活動した山伏でした。渥美郡の触頭(ふれがしら)(山伏の取りまとめ役)を代々務めた田原修験大名跡の家柄でもありました。

享保六年(1721)御祐筆部屋留帳七月廿二日の記事には「一、社人(神職)九人・・・一、山伏六人」、延享元年(1744)萬留帳に「当山方(とうざんかた)山伏十八人」延享四年(1747)萬留帳に「当山方山伏十九人」とありました。また寛延二年(1749)萬留帳九月二十四日の記事に「千手院が柴燈護摩を執行するにあたり近隣の村々から伴僧の山伏を集めた。町役人の役所までその名簿を届け出た。百々村―千谷院、大久保村―龍宝院、水川村―宝龍院、高松村―高松院、越戸村―文殊院」とありました。どうやら江戸時代の田原の山伏は田原御領内に弟子を含めて概ね十数人の山伏が存在したようです。しかも全員当山派(真言宗系)の山伏だったと思われます。以上、本日はここまでとします。

次回から四系統一つずつ更に詳しくご紹介していきます。