崋山神社 宮司のブログ

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御神事から社頭の出来事、時には兼務社の神事芸能までご紹介しております。

171 田原藩士某宛(藩風改良示教)月日不明(抜粋)

崋山先生が幽居中に感じた田原人気質です。

「だいたい馬鹿げていることは、□□(寄)合に、役付きの藩士が全員参会することであり、重大な悪弊がここから生じているという事です。そもそも、それぞれ担当の役人ごとに職掌というものがあり、その職ごとの評価があってこその(御領主様の)御統治となっているのです。(いくら御家中)全体の課題を取り上げているからといって、(役人)全員参会させるべき道理はなく譜代の役人と、(専門技術、知識を買われて)登用された役人の関係は距離を保つようにご配慮いただけたらと存じます。あと、ここ田原の人間の軽率な(調子のいい、節度に欠ける)性向ですね。こんな時期にもかかわらず、役人たちは各々(勝手に)意見を述べたて、登用された(専門職の)者に、自分の(不確かな知識や功績の)自慢話をしたり、管理職の皆さんも(新規事業に対して)何かと批判してみたり、(このままでは)最終的には(藩政改革の)気概も沈んで行ってしまいます。とにかく、(重臣の皆様におかれましては)藩政に関する事、そのご相談は勿論、何か指示を出されるにしても、それぞれの役職のことは担当の藩士に、登用(特別雇用)された専門家の職分に関することはその者に、しっかり区別してお話しいただけたらと存じます。

一、このような(田原は無責任、まとまりに欠ける)状況ですので、重臣や管理職の皆様はさらに孤立し苦慮する恐れがあるでしょうから、ふさわしいものを挙用し、不適格なものは用いない(人材優先の)政治を御心がけいただきたく存じます。」

これ、今も同じです・・・。

責任者や専門家に任せておけば良いのに、声高にとんちんかんな自説を叫び、押し通そうとする人が非常に多いです。

しかも、正論より声の大きな者の意見が通ってしまう・・・。

分相応で、といっているのに見栄と自己満足から大きな事業にしてしまい途中で話しが行き詰まるケースが多いです。

これは前々回の打ち上げ花火の問題でもお話ししました。

結果、色々な事業が消えていきました。

残念なことです。

 

一応原文を掲げておきます。

「一体ヲカシキ事ハ□□□合ニ、御役相勤候もの一同ニ(くわわ)リ候事有之間、大弊(たいへい)コレヨリ生ジ申候。一体諸役ノ了簡有、功合ヲ御政事ト相成候故、一家事(いっかごと)()(かかげ)リ候事とて、一同ニ加ルベキ筋無之、役人外様之間懸隔(けんかく)仕候様御工夫奉存候。此地之風かゝる御時節ニ候得共、役人衆各己ガ了簡建ヲ致、外様之者ニ見エの咄ヲ致、御上役方何もかもあしき様ニ申成、終ニ人心相傾様ニ罷成候。いづれにも御政事御相談事ハ猶更、被仰出にても、役席ハ役席、外様ハ外様と御分被成候様奉存候。

一、右之通ニ御座候得ば、御上役方益孤立之難義可之候間、挙(トドム)狂ノ政、奉存候。」

『渡辺崋山集 第四巻 書簡下』―日本図書センター

監修者 小澤耕一 芳賀 登

田原城の桜御門と三の丸の桜です。

今年はあっという間に満開になった印象です。

結論から申し上げます。

現在のような三社祭礼五町合同のお祭り、最終日に盛大に打ち上げ花火が上がるお祭りにいつからなったのか確実なところはわかっていません。

噂話しを公開するわけにもいかず、文献資料が見つかっていないので何とも言えない状況です。

 

田原藩日記の記録(延享~天保)から確実なところを列記すると

①「田原祭」は江戸時代「蔵王権現雨乞御礼踊り」や「田原祭踊り」と呼ばれ、非常に賑やかなお祭りであった。山車や傘鉾の出し物があり、奇抜な踊りを中心に、笹踊りや人形芝居などが行われた。

②祭踊り(俄踊り)の参加者は新町、萱町、本町の町衆のみだった。

③祭りの日時は毎年旧暦8月の中頃、2日間もしくは3日間かけて行われた。

④神社の大祭とは別の大衆娯楽のための現在で言うところの夏祭りであった。

⑤少なくとも幕末までは花火は打ち上げていなかった。

⑥花火は旧暦6月15日の蔵王権現宮(現巴江神社)の大祭のみに許可されていた。

⑦あまりにも華美になり過ぎ予算が不足し、参加者が集まらず断絶した時期があった。

ぐらいになります。

 

ここで田原藩日記に出てくる江戸時代の田原祭りの名称と略年表を掲げます。

延享4年(1747) 「田原雨乞礼踊り」 

※娯楽型祭踊りの起源

寛延2年(1749) 「田原祭礼踊り」

宝暦2年(1752) 「蔵王権現宮祭礼之踊り」

宝暦3年(1753) 「三社の祭礼踊り」

宝暦7年(1757) 「田原祭礼踊り」

※華美になりすぎて予算不足、参加者不足のため中断願い

宝暦13年(1763)「田原町祭礼」

※簡単な祭礼踊りのみになる

明和元年(1764)「町氏子ども祭り」

※あまりにも祭礼のやり方が毎年違うので混乱、口論が絶えず、田原藩の村奉行が出し物を確定するよう命令

明和4年(1767)  「町氏子とも祭礼」

明和5年(1768)  「田原三社祭礼」

※低俗になり完全に中断

安永3年(1774)  「田原両社祭礼」

※再興願い

安永4年(1775)  「田原氏神祭」

安永7年(1778)  「田原三社祭踊」

寛政3年(1791)  「笠ほこ祭」

寛政8年(1796)  「田原三町祭礼」

文化6年(1809)  「田原三社氏神祭礼」

文政3年(1820)  「田原三社祭礼」

文政6年(1823)  「田原氏神祭礼踊」

これ以降も踊り場が変更になったり何とも落ち着きがありません。

祭の名称もめまぐるしく変わっています。

主催者ではない役人側の記録とはいえここまで一定しないのも珍しいと思います。

 

極めつけはこれ。

宝暦7年(1757)萬留帳7月11日の記事から。

お金もかかるし、参加者も集まらず、もう田原祭りはやめたいといってきた町庄屋に対する村奉行様の御叱りの言葉です。

「田原町主催の祭礼だから原則止める、止めないはそなたたちの自由である。しかし、自ら祭礼踊りを企画して続けてきたものを突然今年から規模の縮小や簡略化も考えず全く中止してしまうのはけしからん話である。近年の踊りが徐々に長期間に及ぶようになり、且つ分不相応な(お金のかかる)豪華なものになってきたのは、結局、町民たち一人一人の見栄や自己満足が優先されてきた結果ではないのか。どうにもこうにも続かなくなってしまった原因はそこである。であるならば、最初からやらなければよかった。何の止むを得ない理由もなく完全に断絶してしまうのは、現在かなり遠方の町村でも評判になってきた田原祭礼踊りであるだけに世間体も悪い。」

そして村奉行様から今後の指示が出されます。

「ご領内外に対して今年中止にする表向きの理由としては、田原踊りはここ数年長期間に及ぶようになり、分不相応な華美な踊りとなってきたところへ、自分たちの快楽を優先するようになり、将来的には存続出来ないようになる恐れがあるからとしなさい。今後は田原藩役所の指示により毎年開催は止めにして、1年おきか2年おきに実施し、踊りも出来るだけ簡略化して行うことになった、祭礼踊りを実施しない年は昔から続けてきた通り、三社(権現、神明、八幡)の御神前へ獅子舞だけは奉納して形ばかりの祭礼を行うことになった、今年の踊りは中止にすると発表しなさい。」

町庄屋(町衆)の結論としては、

「田原町庄屋半十郎と町年寄のうちから伝兵衛、三郎兵衛が村奉行所まで参上し聞いたところでは、祭礼踊りに関して先日御役人様から御苦言、御指導されたことに関して全町民大変恐縮していたとの事だった。確かにご不審の通り、例年実施していた祭礼踊りだから止めるのではなく、どのようにでも省略して形だけでも行うべきであること、そこで、前例もあるので今年から本町、萱町、新町とそれぞれの町ごとにやり方を話合い、費用を出し合い、簡単に祭礼踊りを実施したいと思っているとも言ってきた。また、それにつき去年までは三町以外の田原町民や藩士の皆さんへも費用の負担をいただいていたが、右のように決まったので三町の町民が町ごとに祭礼費を負担することとし、木戸外の百姓へは費用負担はお願いしないこととすること、このように決めたからには怠ることなく、毎年簡単に祭礼踊りを実施する考えであることを伝えてきた。」

となりました。

他のイベントならともかく、神賑わいも神社の祭礼の一部。氏神様に関することはやるにしろ、やらないにしろ慎重に判断したいものです。因みに笹踊り、人形浄瑠璃、俄狂言(田舎歌舞伎)、母衣、獅子舞、いずれも田原祭では現在行われていません。他地区では残っているのですが・・・。

 

天保12年9月8日付の福田半香先生(崋山先生の画弟子)宛の手紙に、

「この度(子供とはいえ蟄居中にも関わらず外部の人間と接触するのは不謹慎ではないかと藩内で噂になっているとの)情報が秘かに入り、親類の子供1人2人が読み書きを習いに私の家に来ておりましたが全員断りました。御存じの通りこれも内密の話で絵を描たり文章を書きながらでよいので、時間に余裕のある時は読み書きを教えて欲しいと真剣に頼まれて断れず教えてきましたが、今回自分の子供も含めて全員、他家へ読み書きを学びに行かせることにしました。」

とありました。

池ノ原の蟄居中のご自宅で即席の寺子屋を開かれていたようです。

この手紙の最後には、

「(私が勉強を教えていると)何でもかんでも、「こんだあ、うまくできた(今度はうまくかけた!)」とはしゃぐ子がいてみんなの笑いのネタになっています。」

とありました。

この時ばかりは田原弁丸出しの無邪気な子供の言葉に先生御自身、お母さん、奥さん、子供たち全員が笑いに包まれたのでしょう。

書簡集の中でも一家団欒のほのぼのした光景が書かれているのはこの手紙とあと一つ二つぐらいでしょうか。

渡辺家の雰囲気がわかる貴重な手紙だと思います。

ただし、先生のご無念は次の月の10月11日になります。

笑っていいやら悪いやら。宮司の私としては本当に切ない気持ちになります。

可能ならばタイムマシーンに乗ってでもお助けしたかった。

いや、コンダアうまく行くぞ。出来るぞ。とのご教示かもしれません。

ご存命中はひたすら真木定前(御用人)さんや村上定平さん(砲術師範)金子武四郎さん(水戸藩士)を励まし続けたご祭神です。

私も前に向かって進むしかなさそうです。(苦笑)

 

 

能登半島地震において被災された皆様には心よりお見舞い申し上げます。

一刻も早い救助、復旧をお祈り申し上げております。

さて、崋山先生は江戸の田原藩邸でどのようなお正月をお過ごしだったのでしょうか。

少しだけその様子がわかる御手紙(御自身の妹の嫁ぎ先に宛てたお年賀の手紙)がありましたので紹介します。

「新春の御慶賀喜ばしく存じます。皆様お揃いで御越年の事とお祝い申し上げます。ここ田原は毎日北西からの季節風(空っ風)が激しく、竹やぶは昼夜鳴り騒ぎ、正月らしい雰囲気は全くありませんが、江戸の出費が多くどうやって年を越そうかと年の瀬前から気持ちが塞がり、そのうえ御屋敷の内外昼夜問わず忙しく、さらにそれ火事だ、それ客だ、それ出張だとバタバタした年の暮れで、翌日元日からまだ日も昇らぬ暗いうちから駕籠で江戸中を乗り回し、年始の挨拶に半月は明け暮れて終わってしまうので、またもや昨年の仕事残りを片付けているうちにその年の仕事がまた増えて、結局ふだんの多忙な勤務の一日となり、家庭内もそれと同時進行で年始の挨拶の客が入れ代わり立ち代わり訪れて、夢の中にいるような気分で世間を渡ってまいりましたが、今現在はうってかわって、母親というものは将軍様にとっても殿様にとっても誰にとってもこの世でたった一人の存在であるように、拙者の妻や長女のカツも母(エイ)を掛け替えのない存在として大切に敬い申し上げ、長男タツ、二男カノウはお話し相手をして家族仲良く、時には上屋敷で奉公していた男たち、またこの田原で(渡辺家に)手伝いにきている女どもが入れ代わり立ち代わり(母の)御機嫌伺いに来てくれてよく気も紛れます。・・・」ー『渡辺崋山集 第四巻 書簡(下)』(213 岩本茂兵衛・喜太郎・おもと宛)より

相当お忙しいお正月をお過ごしになっていたようです。

寝正月は庶民だけの楽しみだったようですね。