崋山神社 宮司のブログ

崋山神社 宮司のブログ

御神事から社頭の出来事、時には兼務社の神事芸能までご紹介しております。

好奇心旺盛な崋山先生は森羅万象すべてに興味を持っていらっしゃった。勿論〝人間〟もその中に含まれている。特に興味を持たれていたのはやはりというべきか、現代人の目から見ればちょっと風変わりな人間だったようだ。朝日直次郎などはその代表格だろう。崋山先生の四十歳前後に書かれた日記『全楽堂日録』には次のように書かれていた。

 

現代語訳 ※ 参考 『渡辺崋山』森 銑三 中公文庫

(友人で儒学者の)朝日直次郎の妻が亡くなったというので弔問に出掛けた。直次郎は常陸国の出身である。美濃の木曽義仲の末裔だそうだ。家は代々占い師を生業としてきたが、彼はそんな賤しい職業を嫌って若い頃に大いなる志を立て実家を出て儒学者になった。始めに(儒学者として)仕官したのは前田○○という侍の家で何か問題が起きる毎に(有識者として)理非を正して穏便に収めた。また、その後とある領主に仕えたが主家は貧しく俸給(給料)はたびたび滞った。当然直次郎とその家族も困窮した。彼の師匠である儒学者朝川善庵はこれを聞いて食料を贈ろうとしたが食料は足りているからと辞退して受け取らなかった。彼の妻は言った。飢えて寝込んでしまいそうなのに何故受け取らないのですか。彼は居住まいを正して言った。受けたら主君の恥になるではないかと。(あの領主は家臣に給料も払えない情けない奴だと世間から思われ、恥をかかせてしまうではないかと。)結局、その後(飢えに耐えかねて)、師匠からの支援は受け取ったものの(主君に申し訳ないと思ったのだろう)彼は辞職した。現在は本所菊川町で小さなボロ家を借りて暮らしている。その辞職の日の話だ。一隻の船を借りて家財道具を運ぶことになり自身は儒学者として正装して乗りこんだ。船頭が行き先を尋ねた。彼からは何も返答が無い。そこで船頭が再び、先生、実は新しい仕官先が決まってないのではないですか、と思い切って聞いてみた。すると毅然として彼は、職を自ら辞した者が予め新しい主人を決めておくとは失礼な話じゃないか、と言い放った。(そういう男なのである。)その信念を一切曲げない性格はもはや奇人(めったにこの世に登場しない特に優れた人物という意味)と言って良い。彼は常に言っていた。私の師匠は天の神様と古代の聖人だけだと。その学才は儒教の本を原文のまま理解し他人の注釈に頼ることなく、(儒教を中国政治に多大なる影響を及ぼす学問として確立させた)秦漢時代の儒学者以上の大儒学者であると自負しており、まさしく偉人である。彼の妻も貞淑従順で旦那様に仕えること神様にお仕えするが如くで、(逆らう者はおらず)家庭内は常にしんと静まりかえっていた。子供は三男一女をもうけた。奥様は三月の下旬に(恐らくひどい栄養失調で)体調を崩し七日間の闘病ののちに亡くなられた。正確に言うと天保二年(一八三一)三月二十九日であった。ああ悲しいことだ。私は彼の小さな仮住まいに弔問した。父と子供達五人が膝を重ねるようにして狭い借家に暮らしており、その貧しさと言ったら見るに堪えないものがあった。といっても直次郎はあまんじて受け入れ、私にこう言った。自分としては(この苦況を)耐え忍んでいれば、そのうち乗り越えていけると思っています、と。世の中の人は彼のような人間がいることを知らない。(このような清貧廉直な人間が存在することをもっと知ってもらいたい。)

原文

「朝日直次郎妻亡吊之。直次郎常州人、美濃木曽義仲裔。季世民業巫、直憤其業鄙汚少立大志儒。始仕前田某家事直幹裁之平和。又仕平侯其家窮乏、給苞数空、直家亦飢。朝川善庵聞之贈以米苞直以食足辞不受。其妻謂曰、飢及倒何不受。直正色曰、受則恥君也。後以其言不一レ行脱籍。今僑居本庄(所)菊川町。其致仕曰、買一隻舟運家資自著礼服而去。船子問其所一レ(いく)、直不答。船子曰先生無身処乎。曰然。何不其所。直曰我乞骸骨預謀之非礼也。直為入剛直奇屈凡比類也。常言我所師天与聖人也。其学以経解経不註、以秦漢以上之儒自期、盖偉人也。其妻貞順事夫如鬼神閫内(こんない)清穆(せいぼう)。生三男一女。三月下旬得病、七日而卒、実天保辛卯三月廿九日也。噫可悲矣。余吊其僑居、父子共五人容蝸盧艱苦不見也。而直縦(従)容甘之、謂予曰、我忍事自所能矣、而人不知也。・・・」

―『渡辺崋山集』第一巻・全楽堂日録より―

 

いや、風変わりと言ったら失礼か。少なくとも私はこれほど忠節一筋な大義士を知らない。その当時の一流の文化人や大功績のあった武士などではなく、あえてこの人に着目している点が崋山先生らしいといえる。それにしても、ここまで信念が固く実直な人間では生きていて苦しいのではと考えるのは私が凡人だからなのだろう。博覧強記の高名な儒学者ではなく、不羈の才の芸術家でもなく、崋山先生の理想としている人間像がうかがい知れる記事だ。道徳教育の儒学(朱子学)全盛の江戸時代の人々ですら引いてしまうと思われる直次郎を尊敬すべき人として取り上げている。もちろん、いくら真面目とは言えこのような貧乏暮らしで、家族を満足に食べさせていけないようでは亭主失格なのだろうけど、それでも当時の一つの男の理想像と感じ取られたのに違いない。時は化政文化の余韻が残る華やかな時代。と同時に佞臣、賄賂政治の権化とわれた閣老水野忠成が実権を握った時代で武士の忠節は頽廃、綱紀弛緩、悪事を働こうが規則よりも袖の下で全て片が付く時代でもあった。それだけに崋山先生としては直次郎のような生き方が一際一種輝いて見えたのかと思われる。それから二百年近く経った。ある意味令和も似通った時代と言っていいだろう、世の中太平に倦み、個人主義、利己主義が跋扈する時代である。正直者が馬鹿をみる時代か。そんな人間関係の冷め切った世知辛い現代だからこそ、究極の生き方、一つの理想像として私も掲げた次第である。惜しむらくは直次郎に関してはこれ以上のことは分らなかった。子供達の消息も不明である。

崋山先生は誰に対しても非常に優しい方でした。

特にお年寄に対しては篤い慈愛の心を持っていらっしゃいました。

友信公の書かれた崋山先生の伝記『崋山先生略伝』には、

「普段ご自宅の中であっても未だかつて先生の怒った顔を見たことがない。先生は以前とある殿様からいただいたという非常に珍しく高価な古い時代の墨を所蔵されていた。常に書斎の机の上に置いて長らく眺めて楽しんでいらっしゃった。その時はまだお婆さまがいらっしゃって御年九十余歳。少々オボケになられていた。ある日そのお婆さまが先生の机のあたりにやってきてその墨を手に取って言った。どうしてこんな(汚い)木炭を机の綺麗な毛氈の上に飾っているのかと。そしてあろうことか、その墨を持ったまま庭に出て石の上に置いて叩き壊して火鉢の中に放り込んでしまった。先生は側にいてその様子を御覧になっていて大笑いが収まらず、まったくお婆さまの老いを咎める気は無く、もう一度手に入れて愛玩しようという未練がましさも無かった。」

原文

〝先生平生私宅の中と雖も未だ曾て怒色を作すを見ず、嘗て或矦(侯)より賜る貴珍の古墨を蔵す。常に晝机上に置き愛玩する久し。時に祖母齢九十餘歳幾と耄耋す。

一日祖母机邊に來其墨挺を捉て言ふ、何ぞ木炭を机氈上に飾る乎と、遂に取て庭中に到り、石上に打破して手爐に投下す。先生傍に之を見て大笑して已まず、毫も祖母の耄を尤むる意なく、復愛惜の色なし。〟

とありました。

儒教の教えである忠孝を実践していただけ?誰かにそうするように言われた、はたまた外聞を気にして体裁を取り繕っていただけ?

いやいや、幼い頃から非常に苦労されたので自然と人に対する労りの気持ちが芽生えたと思われます。子供のころ弟をおんぶして借金を頼みに行かされた辛いご経験、付届けが払えず絵の師匠から破門された悲しい思い出により、弱っている人、年老いた人を見ると助け出さずにはいられないご性格となったのです。それが御自身の家族となればなおさらでした。ご自分が大切にしていた宝物を捨てられたのですから、文句の1つも言いたいところ笑ってすまされた度量はこのようなご性格が形成されたからこそでしょう。崋山先生の温かいやりとりにこちらの心も和らぎます。他にも『崋山先生略伝』には、献身的に病気のお父様に尽す崋山先生の御姿が記されています。

「崋山先生のお父様は定道といった。儒学者鷹見爽鳩先生の門人であった。儒学を極めその当時は鷹見先生の高弟として、田原藩士として、また藩邸の儒学の講師としてのお勤めもされていた。ご性格は決してご自分の信念は曲げない強い心をお持ちで、上役に媚びるようなことはせず、何度も家老に推薦されたが断固として受けず、暫くしてようやく家老待遇の御用人役に御就きになった。(第九代藩主三宅康和公の時)常々、同僚の藩士が古い慣習に固執したり、一時凌ぎの言動をしたりで田原藩政がうまくいかず、藩士たちの風紀も日に日に乱れていくことを嘆き、藩の風土を改善するように殿様に建言されたが、その思いは実現せず、晩年は憤り嘆きが積もりに積もってとうとう御病気になり、気が短くなり怒りっぽい言動が増えてきたが、長男である崋山先生は懸命にお父様を看病し続け、御言葉などには決して逆らうことはせず、(お父様がお亡くなりになる)最後まで尽くされた。その心からの親孝行に励む御姿にみなさん感心しきりだった。(これは僕たちが確かにこの目で見てきたことだ。)残念ながらお父様がお亡くなりになり、葬儀にあたっても常に御霊前にいらっしゃって精誠尽すこと厚く、佐藤一斎先生の書かれた喪祭篇(哀敬編)に則って、偉大なる儒者として弔うために祭具等を整えて儒葬を斎行。長期間喪に服して哀悼の意を尽した。(すべて私が目撃した事である。)」

原文

〝先生父は定通(さだみち)鷹見爽(たかみそう)(きゅう)の門人なり。経学(けいがく)を修め、(とう)()高弟にして、一藩の士、師とし(つか)ふ。性剛直にして上に阿諛(あゆ)せず、數々執政(しっせい)擢擧(てききょ)あれども固辞して不應後ち加判(かはん)の列に入る。(三宅康和の時)平生同列の士、因循(いんじゅん)姑息(こそく)にして、君家(くんか)の政令振はず、士風日に(ぎょう)()なるを(なげ)き、建言あれども其の意達せず、晩年憤恚(ふんい)積憂(せきゆう)して遂に疾を生じ、言動(へん)(きゅう)に至れ共、先生孜々(しし)として其()()(さから)はず、終始一日の如し。其純孝人皆感服す。(僕等目撃する所也)父歿して喪に()ること厚く、佐藤一斎(しる)す所の喪祭篇(そうさいへん)(よっ)て大略儒家の葬禮を(そな)へ、喪に居る極て哀敬を(つく)す。皆僕目撃する所なり

時には荒っぽい言葉もお父さんから投げかけられたのかもしれません。それでも、言い返したり怒ったりすることなく看病し孝養を尽されています。時は文政6、7年(1823~24)の頃のはなしです。崋山先生は31、2歳でした。ちょうど働き盛りであり、画家としても名声が確固たるものになりつつある時期でしたので、本当なら看病などしていられないのに父というよりまるで主人に尽すようにされています。根底にあるのはやはり愛でしょう。それも弱った方、御年寄の方を見ると無条件に助けずにはいられない愛です。確かにある程度の収入や食料は健康的な生活する上で重要です。でも、もしこの世で一人ぼっちになってしまったら人間はどうなってしまうでしょう。地球上遍く無人の家、無人の町だったらと想像してみて下さい。十分な食料があっても寂しさのあまりに死んでしまうのでは無いでしょうか。愛し愛される人が近くにいるから生きていられる。そのことを崋山先生の生き方から学んだ気がします。

皆様明けましておめでとう御座います。

地平線上に雲が多く棚引いていたので例年になく印象的な日の出になりました。

今年も宜しくお願い致します。

令和八年は午年ですね。

崋山神社には立派な神馬の銅像があります。

桜の季節には非常に映えます。

皆様にとって何事もウマくいく年でありますように。

頓首再拝

最新の西洋事情を研究し尽していた崋山先生だけに、当時の西洋の食文化にも相当精通されていたようです。

特にワインに関してはこだわりがあったようで独自の飲み方まで紹介されています。

 

「図らずもウェーン(ワイン)を頂戴しありがたく存じます。これは葡萄酒かと存じます。恐れながら少々水で割って薄めたものか、或いはもともとこのように薄い味の酒か分かりかねますが、味はいただいたものよりは少し濃いワインを飲んだことがあってそれは苦味もかなりきつかったです。私は非常にこのワインが好きで、ただ、このまま飲むのは苦手でして、これに砂糖を少しかき混ぜお湯を適量注ぎますと、何より葡萄の味と香りがぐんと立ち上がり非常に美味しくなります。欧州人も薬用などとして飲むときはこのようにして飲むらしいです。長崎の人々はこのワインを飲むのが当たり前になり、酒好きは薄めずにそのまま4、5本ほども飲んでしまい、食事や宴席でも常にワインを飲むそうです。このようにたくさん飲んでしまうのはまったくもって(美味しすぎて)飲み慣れてしまい、早く酔っぱらいたくて一気に飲むからと思われます。とにかく私としては暑さの疲れもたまってくる晩夏の昼寝の前に、はたまた寒い冬の夜、灯火で読書をした疲れを取るために飲みます。飲めば衰えた体力が回復し、気力や血が体中に行き渡ります。誠に有り難くこれからも宜しくお願いします。私はいつも小さな盃二杯飲んだだけで顔が赤くなってしまいのぼせてしまいます。一杯でちょうど良い気分になります。感謝申し上げます。」

『渡辺崋山集』第三巻 書簡上 130三宅友信宛(学事応答)より

田原藩ご隠居三宅友信公からワインを贈られた、そのお礼状です。

それにしても、崋山先生や友信公はどこでどうやってワインを手に入れたのでしょうか。

天保10年に老中水野忠邦によって停止させられるまで薩摩藩もかなり手広く長崎貿易を行っていたと聞きます。

正規の長崎会所ルートだけでなく色々な商人が介在し意外と南蛮のハイカラなものが江戸に出回っていたのかも知れません。

お酒はあまりお強くなかったようです。