崋山神社 宮司のブログ

崋山神社 宮司のブログ

御神事から社頭の出来事、時には兼務社の神事芸能までご紹介しております。

江戸時代の田原祭り(田原三社祭礼踊り)について

田原祭りの時期が近づいて参りました。そこで意外!?と知られていない田原祭りの歴史を質問形式で簡単にご紹介します。

㋐どこの神社のおまつり?

蔵王権現宮(現巴江神社)、田原神明社(萱町・本町)、八幡社(新町)に関わるお祭りでした。これは現在も変っていません。

㋑由緒、縁起(始った理由)は?

蔵王権現の神様に対する雨乞いや降雨の御礼踊りがきっかけです。渥美半島は降雨が少なく毎年のように旱魃に悩まされていた という事情がありました。

㋒蔵王権現宮とは?

もともと蔵王山南麓に鎮座した山口、北荒井、五軒丁などの巴江地区の氏神さまです。田原藩士の総氏神さまでもありました。明治時代に熊野社に改称し、現在は巴江神社(田原城御本丸跡地に御鎮座)に合祀されています。

㋓祭の名称は?

田原藩日記には非常に多くの表記が登場します。

延享4年(1747) 「田原雨乞礼踊り」

寛延2年(1749) 「田原祭礼踊り」

宝暦2年(1752) 「蔵王権現宮祭礼之踊り」

宝暦3年(1753) 「三社の祭礼踊り」

宝暦7年(1757) 「田原祭礼踊り」

宝暦12年(1762)「氏神祭礼」

宝暦13年(1763)「田原町祭礼」

明和4年(1767) 「町氏子とも祭礼」

明和5年(1768) 「田原三社祭礼」

安永3年(1774) 「田原両社祭礼」

安永4年(1775) 「田原氏神祭」

安永7年(1778) 「田原三社祭踊」

寛政3年(1791) 「笠ホコ祭」

寛政8年(1796) 「田原三町祭礼」

文化6年(1809) 「田原三社氏神祭礼」

文政3年(1820) 「田原三社祭礼」

文政6年(1823) 「田原氏神祭礼踊」

神社の創建由緒に関わるお祭りではなかったからか、町民の勝手連による娯楽祭だったからか役所側の表記は曖昧です。ただし、宝暦3年(1753)の田原藩日記の記事に、神明社神主金田氏から役所に「蔵王権現宮祭礼の踊り」から「(田原)三社の祭礼踊り」に変更した旨の届出が出された、とありましたので「田原三社祭礼踊り」を江戸時代の正式名称として良いでしょう。おそらくそのあたりから当初の蔵王権現宮に対する雨乞い(お礼)踊りとしての意義も忘れられていったと思われます。

㋔いつから始った?

現在の田原祭りにもつながる娯楽型の賑やかなお祭りは延享4年(1747)の蔵王権現への雨乞い御礼踊りがきっかけで始りました。今から277年前のことです。藩日記には吉田二川から踊りの師匠を招いて練習した、屋台も出たなどの記述があり相当賑やかだったと思われます。

㋕延享4年以前はどうだったの?

田原藩日記に貞享2年(1685)6月26日に雨乞い踊り、元禄6年(1693)6月29日に雨乞い御礼踊りの記事があるものの詳細はわかりません。規模や踊り手の年齢層などが分からず内容が乏しすぎるのです。しかも約半世紀以上時が経った延享4年まで田原祭の記事が見当たらず、この貞享と元禄の雨乞い踊りを現在まで続く大衆娯楽型の田原祭の源流としてよいか今のところわかりません。因みに貞享2年の雨乞い踊りでは野田芦村の阿志神社でも踊りを奉納しています。

㋖いつ行われていた?

毎年行われていた時期もあれば、1年ごとあるいは2年ごとに行われた時期もありました。町の規模からすると分不相応に盛大華美になってしまった祭礼費が過度の負担となってしまったのです。当時の経済状況、大飢饉などによりどうしても続けることが出来ず数年間断絶した時期もあったようです。神社の大祭、恒例祭とは関係が無く、あまり制約のない町民の勝手連によるお祭りだったからだと思われます。行われた年は概ね旧暦8月の15日前後で、期間は2日間もしくは3日間でした。

㋗どんな内容、性格のお祭りだった?

貞享、元禄の頃はともかく延享以降のお祭りは大衆化した娯楽優先の子供踊り主体の祭礼だったと思われます。㋓の名称一覧からもわかるかと思います。それも念仏踊りや奥三河の花祭りの舞などと言った宗教色、民俗色の濃い行事と言うよりも、近世初期流行した風流踊りのような時代の流行とともに移り変わっていく奇抜な着物と滑稽な仕草の俄踊りに近いものだったと思われます。踊り場所はかなり変遷がありました。蔵王権現宮の境内で行われていたこともあったようですが、境内地が山腹かつ狭小につき主に大手門内の広場(現在のまち眼科付近)と神明社、八幡社の境内地で踊られていたようです。時代によっては八軒家の千手院観音堂跡地でも踊られていました。お殿様やお姫様ご高覧のあった年は三の丸や桜御門の前の広場でも踊られていたそうです。

※こちらは近世初期の風流踊りの光景です。緑の編み笠に花飾り、中には蝶々の模型や桶を頭に乗せている人もいます。絵の左側の尼さんは扇子で口元を隠しています。こらえきれず笑ってしまったのでしょう。田原の踊りも同様に滑稽さ、奇抜さを各踊り組が競った俄踊りのようなものだったと想像されます。

因みに江戸時代の田原祭りでは花火は行われていませんでした。花火は蔵王権現宮の例祭、高松村八王子宮(現八柱神社)の例祭でのみ打ち上げることが藩役所から許可されていました。花火の火薬の扱いは武器の製造とも関係が深かったため原則禁止で厳しく取締が行われていたのです。花火の製造や打ち上げは藩や幕府から許可をとる必要がありました。

㋘その他出し物

獅子舞

獅子舞はもともと新町八幡社の大祭の神賑いでした。それが八幡社の祭礼日と田原祭りの日が重なっていたこともあり自然と田原祭りの出し物として取り入れられていったと思われます。1人立ちか2人立ちかその他詳しいことはわかりません。

傘鉾(かさほこ)

当然ながら京都祇園祭のような巨大壮麗なものではなかったでしょう。下図にあるように町民数人で曳く小形の屋台形式の車、もしくは小さな神輿だったと思われます。飾りもシンプルに笠型の飾りだけだった想像されます。この傘鉾を中心に踊りが行われていました。寛政3年の祭の名称も傘鉾祭となっています。

※吉田天王社(現吉田神社)祭礼の飾鉾「三河国吉田名蹤綜録」より

山車(だし)

宝暦7年(1757)に本町が車一台組み立てて祭の出し物としたという記事がありました。ただし、その後、山車は中止したとの記事が散見されるのみで形や規模など詳しいことはわかりません。この山車は予算的、労力的にかなりの負担が町衆にかかったようです。寛政十年に一度だけ復活したもののその年のみの巡行となりました。少なくとも現在のような絢爛豪華な昼山車ではなかったと想像されます。

操り人形芝居(人形浄瑠璃)

浄瑠璃と言われる三味線の伴奏と独特の節回しの台詞に合わせて人形を操り演技させる芝居です。田原藩日記には新町薬師堂で新町の町民が行ったとありました。獅子舞同様新町が独占していた出し物と思われます。

笹踊り

笹踊りは主に東三河地区に伝わる民俗芸能の踊りです。吉田神社の笹踊りは鮮やかな朱の装束を着た若者が腹に抱えた太鼓を叩きながら勇壮に踊ります。田原では安永4年(1775)に町衆から新に子供笹踊りを田原祭りの出し物に取り入れたいと願が出されいてこの年から始った事が分かります。その後農村部の祭でも笹踊りの表記が散見され江戸時代はある程度田原御領内に定着していたことが伺えます。

※吉田天王社祭礼の笹踊り「三河国吉田名蹤綜録」より

母衣(ほろ)

宝暦十三年の記事に「本町、萱町・・・母衣背負い」とあった以外詳細不明です。吉田白山権現宮の花祭り(勝ち花)のようなものだったのでしょうか。とにかく母衣とあるからには飾りの付いた何かを背負ったものと想像されます。

※白山権現社(現白山比咩神社)祭礼の勝花「三河国吉田名蹤綜録」より

㋙世話役、踊り手、寄付者

三社祭礼踊りの世話役は田原神明社宮司金田氏と町庄屋でした。特に踊りの世話役(責任者)としては金田氏がその役割を積極的に果たしていました。当時蔵王権現宮の宮司を務めていたこと、広大な屋敷地があり踊りの練習場所として提供できたこと、大地主(大家)でもあり桟敷席を提供できるだけの経済力があったことなどが理由として挙げられます。踊り手の主体は子供達でした。特に再興当初は新町の元服前の男の子達が多く参加していたようです。延享4年(1747)萬留帳8月22日の記事に「・・・先日、2日目の踊りが風雨で中止になったが、2日目もあると思って初日に見学に行かなかった息子達の親が大勢いたようだ。舞台は片付けてしまったが城宝寺の客殿を借りて見せてやりたいと町役人が(村奉行所まで)要望を出してきた。・・・」とあり、また、宝暦3年(1750)萬留帳8月5日の記事には「・・・特に新町から多くの若者が踊り手として参加しているので・・・」とありました。獅子舞も新町主体、人形浄瑠璃を最初に取り入れたのも新町の衆でした。高額な経費がかかる山車巡行や傘鉾こそ萱町、本町に頼っていたものの祭全体の牽引者は新町の氏子だったといってもいいかもしれません。祭礼費の寄付は再興年から規模縮小するまでの10年は3町以外の田原町民、また田原藩士へも御願いしていたようです。お殿様やお姫様も積極的に踊り子の食事を寄付したり、またご高覧いただいたりしたという記事も藩日記にはありました。

まとめ

というわけで、江戸時代の田原祭りは㋖で述べたように神社の大(例)祭とは関係ありませんでした。延享4年、蔵王権現への雨乞い御礼踊りにかこつけて行われた大衆娯楽の為のお祭り踊りを起点として展開してきました。いわば現在の市民祭や夏祭りのようなものだったのです。宗教的な制約はほとんどなく自由に出し物を取り入れたり、逆に取りやめたりすることが出来たようです。そう考えると時々、自分勝手な理由で断絶した事、令和現在上記出し物のほとんどが伝承されていない事も合点がいきます。因みに江戸時代、蔵王権現宮の大祭は旧暦で6月15日、神明社は9月15日、八幡社は田原祭とは別枠で8月15日に行われていました。現在の三社の例祭(大祭)の御神事は新暦の9月の敬老の日直近の土日です。旧暦でいう8月なかばぐらいでしょうか。意図的かどうなのか近代のどこかで神社の大祭日が大衆娯楽の踊り祭りの開催日にすりよってきたように思えます。何かやむを得ないいきさつがあったのでしょうか。本来、神社の大祭日は絶対に変更不可のはず。獅子舞、祭礼踊りなどは御神事に付随する神賑わいという位置づけでなければなりません。それなのに大衆娯楽祭の都合にあわせて大祭日が変更されたような印象です。神社関係者としては少々違和感を覚えます。といっても、今更例祭日を元に戻すわけにもいかず仕方ありません。田舎では過疎化、高齢化の問題もあります。やむを得ず変更を迫られる場合もあるでしょう。重要なことはお祭りの為に神様がいらっしゃるのではなく、神様を勇めるため、お鎮めするために神社の御神事と踊り、花火などの神賑わいがあるということです。奉納○○のご寄付は敬神の心、郷土愛という篤志から成り立っています。奉納と付く神賑行事をみだりに変更することは神様(神社)の面子に関わることであり、また奇特なる方々の気持ちを害する場合もあります。“新しく始める”にしても、“中断する”にしても判断は慎重にしたいものです。このことを氏子の皆様には忘れないでいただきたいと願っております。

 

江戸時代、田原藩御領内には八つの社家がありました。

①金田家―田原神明社(蔵王権現宮・東照宮)

②清谷家―新町八幡社

③渡辺家―野田村八幡社

④大庭家―阿志神社

⑤大羽家―神戸村神明社

⑥高橋家―今田村天神社

⑦宮本家―若見村八幡社

⑧森家―和地村三島社

です。社家とは特定の神社の神主職を代々相続してきた家です。

簡単にご紹介しますと、

①の金田家は田原の神主の中でもナンバー1といって良い社家でした。御城下総鎮守であり萱町、本町の氏神様でもあった田原神明社の社家でしたから当然と言えば当然です。他にも総御家中の氏神であり、山口、柳沢、北荒井、五軒丁などの概ね現在の巴江地区の氏神様である蔵王権現宮の宮司、山柄沢東照宮の宮司も兼ねていました。お殿様の御日待ちの御祈祷をはじめ雨乞い、厄年の御祈祷なども一手に引き受けていました。藩主からの支持は他の神主を圧倒していたいっていいでしょう。神明社門前に広大な神領地を有しており、そこには居宅はもちろん神田(年貢免除地)があり、借家は数件あったと田原藩日記にありました。大地主だったのです。経済的には相当余裕があったと思われます。また、江戸時代は代々「田原祭り」の世話役も務めていました。後期からは藩士子弟との養子縁組の記事が度々日記内に見られるようになっていきます。田原町民のみならず田原藩や藩士との関係においても非常に深かったと言えるでしょう。

②の清谷氏は新町の氏神である八幡社の社家でした。江戸時代の初期は陰陽道系の神主だったようです。金田氏ほどではないものの藩主からの御祈祷依頼もありましたし、境内地安堵の黒印状も出ていましたのでやはり田原の有力社家だったことは間違いありません。金田氏同様江戸時代の後半からは養子縁組などで藩士との血縁関係が深くなっていきました。

③の野田の渡辺家は野田八幡社(現進雄社)の社家でした。田原藩日記内の延宝三年(1675)の殿様御礼の儀式において野田村祢宜長左ヱ門の記載があり古来より野田の社家だったことは疑いようがありません。しかも、元禄あたりからの通称が主膳、石見、河内などとなっており、宮中の官職名や国名が付けられていることから神祇官領長上吉田家から正式な神道裁許状を受けていたものと思われます。田原町の社家や神社ほどの華やかさはなかったものの、社家(神主)の格式としては相当高かったと言えるでしょう。

④の大庭家は渥美郡内唯一の延喜式内社阿志神社の社家でした。通称は代々弥三郎を名乗ってきました。元禄九年(1696)の正月御礼を初見としてお能拝見など代々の藩主から御祝儀(お祝いの席)に呼ばれています。お殿様からは度々田畑の寄進もありました。式内社の宮司だけに御領内どころか三河国内でも有数の由緒ある家柄だったと言えます。

⑤神戸神明社・久丸神社の宮司は代々青津村の社家大羽家が務めました。通称の漢字表記は次兵衛や治兵衛で読みとしてはジヘエだったと思われます。延宝三年(1675)の御礼の席に、すでに青津村祢宜次兵衛と見えるので古い家系であったことは間違いありません。文化十三年(1816)には京都吉田家から神道裁許状を受領し相模という神職通称になっています。

⑥今田村天神社(天満社)の社家は高橋家でした。今田村は現在の豊島町にあたります。田原町史中巻所載の年貢免除地一覧に「新田畑一石三斗 今田天神 高橋平兵衛」とありました。田原藩日記には村奉行から除地証文を頂戴したという記事が度々登場します。田原藩から正式に神職の家として認められた証しと見て良いでしょう。

⑦宮本家は若見村八幡社の有力社家でした。しかも江戸時代、他の社家よりも早い時期に京都吉田家の神道裁許状を受領していた社家であったことが分かっています。寛保三年(1743)の御祐筆部屋日記には寺社奉行の紹介状まで記載され、若狭の官位名を得たことが記されています。田原藩内でも折り紙付の名家であり社家だったといえるでしょう。

⑧森家は和地村の社家でした。和地村の氏神は三島神社でありそこの神主を代々務めた家柄でした。

以上です。

この八つの社家が江戸時代の田原領には存在しました。このうち旧田原町の六家は残念ながら一つも社家として残っていません。社家どころか家として存続しているかどうかも定かではありません。旧渥美町には荒木田家、(中山)、森家(和地)、川口家(小中山)、小久保家(堀切)、旧赤羽根町には宮本家(若見)、長谷川家(一色)など神主職を継いでいるかどうかはともかく家系としては存続しています。近領では中村家(老津)、平石家(飽海)、大木家(石巻)なども神職として代を重ねて現在も宮司職を引き継いでいます。それなのに旧田原町には社家は勿論明治以降に神職となった近代社家すら一家も存在していないのです。不可解なことです・・・。

 

十七谷千手院

江戸時代の田原藩では千手院こそ田原修験道の中心的な存在であったと言っても過言ではないでしょう。元禄十二年(1699)には御領内各村から依頼されて殿様の前厄御祈祷をしています。元禄十七年(1704)にはお殿様の新調された御幕の加持祈祷を執行しており田原三宅家治政の早い段階から代々藩主の崇敬篤かったことは間違いありません。前述の新町薬師でも大行院他の山伏でもなく青龍院(千手院になる前の院号)に祈祷を依頼しているのです。彼が田原領において他の山伏とは異なる特別な存在であったことを思わせます。宝永八年(1711)境内を十七谷から八軒家に移して、青龍院から養源院に代替わりした頃からさらに寺院に勢いがついたようです。大峯入(大峯での修行)した養源院が千手院の院号を授けられ、当山派(真言宗系)修験道最高の位である法印となって田原へ帰ってきます。その後も観音開帳、お殿様の参勤道中安全の御祈祷など活躍の事績が田原藩日記にどの山伏よりも多く記載されています。残念ながら彼は実子をもうけることが出来なかったのか一旦代は途絶えてしまうものの、享保十一年(1726)に浜松から永寿院(二十八歳)を迎え養子として相続させる事になりました。彼は相当優秀だったらしく峰入り後千手院の院号を授与されたことは勿論、渥美郡触頭の役職に任命されました。触頭(帳元)とは一定の地区の山伏の頭領、親玉という地位です。この役職は素行の悪い他の山伏を追放できるほどの権限を持っていました。実際田原藩日記の宝暦十一年萬留帳に、素行不良の水川村の山伏を三河国から追放したという記事がありました。象徴的なのは席次です。享保十四年(1729)御用留書に正月御礼(御城で藩主に正月のご挨拶をする儀式)の席次が記されており、御敷居内に八軒家千手院、敷居外八軒家東覚院、同所大行院とありました。また、右千手院は山伏の触頭に任命されたのでこの席順になったともありました。この敷居の内か外かは非常に重要で、殿様から千手院が田原の山伏の長であることを正式に認められた事を意味しています。ここに来て千手院系山伏の田原での地位は頂点に達したと言っていいでしょう。結局この触頭の地位と千手院の院号は代々受け継がれ幕末あたりまで修験寺院として存続したようです。嘉永三年(1850)御入部御礼順席に十七谷山伏千手院とありました。

この千手院のもう一つの特権的地位を示すものとしては蔵王権現宮(御家中総氏神)と東照宮の臨時の別当(仮の宮司役)を任されていたことです。正規の宮司の田原神明社金田氏が不法行為をして宮司職を罷免される度に、臨時で宮司役を引き受けていたことです。神主に故障があったら他の神主が代理として神事に奉仕するところ、山伏が代わりに奉仕していたのです。このようなケースは他藩ではあまり考えられないことなのではないでしょうか。理由は定かではありません。ただ、想像するに御城下総鎮守として広大な社有地を持ち経済的に他の神主を圧倒していた神明社家金田氏の代わりを務められるのは千手院だけだったのかもしれません。実際、享保十七年萬留帳に養宝院、凉善院二人の弟子の寒行願いが出された記事が見えます。千手院には常時数人の弟子がいたことが伺えます。また、寛延二年(1749)萬留帳に百々村―仙谷院、大久保村―龍宝院、水川村―宝龍院、高松村―高松院、越戸村―文殊院と複数の山伏を伴僧として動員して柴燈護摩供を盛大に執行したという記事がありました。天保六年(1835)には当時宮司役を務めていた蔵王権現宮で豊漁祈願の大柴燈護摩供を支配下総勢十三人の山伏とともに執行しています。江戸時代、御宝前で読経したのは勿論、御神前で祝詞も奏上した修験者です。且つ、これだけの組織力があれば本務の修験寺院のみならず複数の神社の神事を請け負うことなど容易いことだったでしょう。

八軒家時代の千手院の所在地ははっきりしていません。十七谷観音の境内は文化五年家中住宅地図に、

とあり、また幕末の住宅地図に

とありました。田原藩士の住宅地のただ中に在住していたといって良いでしょう。天保八年(1837)には十七谷千手院境内にある雨宝童子のお堂に御家老、御用人から町廻などの下役人、果ては町庄屋、村役人まで参籠して雨乞い祈願が行われています。田原藩士や田原町民と修験者との距離関係が近かったことが分かります。特に代々の千手院は江戸期を通して田原の修験道の中心にあって圧倒的な存在として君臨した山伏でした。

こちらは藤七原地区の氏神、松尾社です。寛政八年(1796)の棟札に「法主十七夜 千手院智尊敬白」、安政二年の棟札に「法主十七夜山鎮座 千手院験院 法印学如」とありました。御遷宮は専門的な作法、知識を必要とするため期間限定で庄屋や鍵取(代々神主役を務めた村人)から御遷宮の指導者役並びに遷宮斎主を頼まれたものと思われます。神社なのに新町八幡社や田原神明社の神主を頼まず山伏に頼んでいるのです。神主(社家)よりやや地位が低かったので敷居が低く、予算的にも頼みやすかったのでしょうか。いずれにしろ雨乞い御祈祷から氏神奉仕まで非常に幅広く請け負っていたことがわかります。千手院の勢威の程が伺える棟札だと思います。社殿もどことなく修験道の雰囲気を感じるのは私だけでしょうか。現在跡形もなくなってしまった十七夜の観音堂もこれに近い雰囲気を持っていたのかもしれません。そう考えて改めて見ると感慨深いものがありました。

八軒家稲荷社系―東覚院

田原藩日記に元禄九年(1696)正月御礼―八軒家山伏東覚院とありました。東覚院が江戸時代初期から八軒家の山伏として存在したことは間違いないようです。他にも元禄年間にはお殿様の御帰城や御出府の際の法螺貝役を務めたり、秋葉山へ代参してお殿様に御札を差し上げたりしていました。この頃は田原を代表する山伏の1人だったと言えます。元禄十六年には彼が山の神社で湯立て神事を執行したという記事、その後、御神酒供物を御城へ進上したという記事もありました。山の神は後の八軒家稲荷社のことです。次に紹介する大行院とともに輪番制で八軒家の氏神神社に別当(宮司)として奉仕した山伏でもありました。ただし、残念ながら東覚院の名跡は享保年間の最後には途絶えてしまいました。享保十六年の殿様御参勤の御首途で法螺貝を務めたという記事を最後に登場しなくなってしまうのです。享保五年に東覚院相続の記事はあるものの、この代で東覚院系山伏は断絶したと思われます。以降八軒家稲荷社関連は勿論のこと、田原藩日記には大行院しか登場しなくなってしまいました。

後述する十七夜千手院の弟子で町衆から人気のあった教蔵院も二代目で代が途絶えました。江戸時代、田原藩では山伏を生業とする事は原則一代限りとされました。他領から来た山伏(弟子)によって博奕や売春(賭け的、的場の矢取り女)などよからぬ風俗を持ち込むケースが多かったからです。運良く二代、三代と続いたとしても相続者がいなかったらそれまでとすることもあったのです。必ず家督を相続できた社家や寺院とは事情が違いました。山伏、とくに里修験といって町村に住んでいた山伏は寺社より敷居が低く、身近な宗教者という地位で一定の存在感を示した一方で途絶えたらそこでおしまいのはかない存在でもありました。

 

八軒家稲荷社系―大行院

対して、同じく古くから山の寺に在住した大行院系山伏は東覚院系消滅後も存続しました。おそらく幕末まで存続したのではないでしょうか。田原藩日記に弘化二年(1845)大行院跡目金剛院の記事、また嘉永三年(1850)御入部御礼順席に田原町山伏大行院の記載があるからです。活動の事績としては八軒家稲荷社の別当職のみならず、お殿様の御帰城、御参府の折には法螺貝役を務めたり、雨乞い祈祷を命じられたり藩からの信頼も篤かったようです。田原を代表する山伏は誰かと問われたら、次回説明する千手院とこの大行院であるといっていいでしょう。因みに宝暦六年(1756)に大行院は修験寺院、護摩堂、居宅まるごと八軒家(山の寺)から下萱町に引っ越しています。人口のより多い町中に居住した方が信者と接する機会が増えて勧進(奉賀金集め)など宗教活動を行う上で都合が良いという判断でしょうか。千手院も近距離の引っ越しが二回ほどありました。神主などと比較すると居住地に縛られていなかったのが山伏の特徴でもありました。

 

(現在の八軒家稲荷社です。どことなく修験の雰囲気が漂います。)

そんな大行院が別当を務めた稲荷社は前述の通り江戸時代、山の寺地区と八軒家地区の二地区の氏神様でした。(※現在は八軒家のみです。)しかも田原藩主から特別な崇敬を受けた神社でした。宝永二年(1705)には八軒家山ノ神社(現稲荷社)へ田原藩主から神社修復費としてお初穂料金二百疋が奉納されています。元文三年(1738)にはやはり田原藩主から稲荷社に対して神領として畑(年貢免除)が寄付されました。氏神神社とはいえ御領内のすべての神社にお殿様からのご寄付があったわけでありません。お殿様からの寄付や奉納は蔵王権現宮、田原神明社など一部の神社に限られていました。これは非常に名誉なことなのです。修験系の氏神神社としては蔵王権現宮(現巴江地区)と並ぶ田原を代表する神社であったといっていいでしょう。特に明和四年(1767)の記事には伏見稲荷大社から正一位稲荷大明神の分霊(神璽勧請)を御本社からいただいた、とありました。渡御の際には田原町中から夥しい数の参詣者が訪れたともありました。以降さらに神社の勢いは増していったようです。また、江戸時代通して修験道独自の柴燈護摩供も盛んに執行されていました。護摩木の施主も多数あったそうです。崇敬者や祈祷檀家(修験道の信者)は田原町内外に多くいたと思われます。田原山伏の触頭(長)、千手院も一時期八軒家に在住したほどでした。八軒家、山の寺は田原修験道の本場だったといっていいかもしれません。そこの氏神様ですから田原稲荷社といってもいいほどの神社だったと思われます。

 

新町薬師は江戸時代、田原町新町通りに鎮座した修験寺院です。この新町通りという道沿いにあった根拠としては。

(文化五年の御家中住宅地図)

御覧の通り新町の通りの外側南東西はこの時代すでに仏教寺院や御家中屋敷で埋め尽くされており、通り以外にあったとは考えられないからです。元禄~享保までの各種御礼(殿様へ御礼を申し上げる儀式)において、千手院、東覚院と並び田原薬師別当山本数馬、田原薬師別当山本大炊の名前が散見されますので、田原を代表する山伏の1人だったと思われます。すでに宝永三年(1706)に除地証文(寺院として認められ境内地にかかる年貢免除を寺社奉行が保証した証書)が発行されていることからも江戸時代初期から有力な修験者(山伏)であったことは間違いないでしょう。ただし、江戸時代中期頃から度々代が途絶えて養子相続になってしまいました。延享四年(1747)には縁故の山伏の代行院が新城から安勝院(延盛)を養子に迎えて新町薬師を継がせています。その安勝院も早くも惣領(跡継ぎ息子)の智教院に何か支障ができたのでしょうか。途中彼の消息は途絶えてしまい、安永年間あたりで大久保村山伏だった龍宝院が後を継いでいます。だからというわけでもないのでしょうが、田原藩日記中に町衆からの御祈祷依頼の記事も少なく、田原藩主依頼の雨乞い祈祷や五穀豊穣等の御祈祷はほとんどありませんでした。代々の田原藩主の絶大な信頼をうけ、種々の御祈祷を頼まれ時に柴燈護摩を執行していた十七夜の千手院や、八軒家氏神稲荷社の宮司役を務めた大行院などと比較すると本来の修験寺院としての勢いはやや劣っていたようです。その代わり山伏の裏稼業、原則禁止の勧進興行(寺社の資金集めの催し)は他の山伏よりも盛んに行っていました。藩の許可を得れば行う事が出来た富クジ興行などはまさに薬師の専売特許でした。宝暦七年(1757)には田原神明社の御遷宮に伴う勧進興行として宮司の金田氏から新町薬師が富クジ興行を請け負っています。寛政二年(1790)萬留帳三月八日の記事には、「新町薬師正学院が以前富籤興行を企画したところ、役所から中止命令が出て各村に頒布したクジ札を回収しようとしたが、神戸郷数原村のみは内密に行ってしまったのではという密告が役所に届けられ、・・・」とあって、富籤興行の元締めのような存在だったことが分かります。また、新町薬師は御領内の修験寺院では珍しく的場がありました。宝暦十一年(1761)萬留帳十一月二十三日の記事には、「別当智教院から新町薬師境内において寄り的興行を行いたいと申請が出されて許可された」とありました。寄り的とは現在の縁日の射的にあたる遊戯です。特定の日、特定の寺院、御領内の人間ばかりで行うという条件で簡単な賭け的(弓の賭け事)なら許されていたようです。間違いなく新町薬師は田原御領内の賭け事興行の中心だったと言って良いでしょう。寺院の維持にもお金がかかります。勧進興行は特定の山伏には許されていたと思われます。相続に関しては文政五年(1822)八月三日の記事に正学院の息子の金剛院が大峰修行から無事帰宅して、お殿様に御札を差し上げたとありました。大久保から新町へ引っ越してきた龍宝院から数えて三代目ですからようやく落ち着いたといっていいでしょうか。もちろん現在新町に薬師堂などの修験寺院はありません。明治政府の修験宗廃止令によって修験寺院は潰されてしまったからです。山伏も還俗するか僧侶もしくは神主なることを強要されました。現在まで残っていればまた一つの観光名所になっていたかもしれません。