4月20日(土曜日)、運動を兼ねた旧跡たどりに行ってきました。この日は午後から天気が崩れると聞いていたので、

朝から家でYouTubeの運動系動画を見ながら30分くらいエクササイズをし、10寺頃に出発。

昼食までは時間があるので、観音寺市の琴弾八幡宮に車を停めて、歩いてとりあえず神恵院方面へ。

神恵院(じんねいん)は、四国八十八ケ所巡りの一つ第六十八番札所で、すぐ隣には第六十九番観音寺(かんのんじ)があります。

ややこしいですが、市名は「かんおんじし」ですがお寺の名前は「かんのんじ」と読みます。全国の人は「かんおんじ」の方が違和感があるでしょうけど…。

琴弾八幡宮の山は南北に伸びていて、北と南にそれぞれコブがあり、南側のコブに琴弾八幡宮があり麓の東側に先ほどの神恵院と観音寺他総持寺惣持院などがあり、

北側の山は興昌寺山と云い、麓の東側に興昌寺と常行寺があります。お寺が密集しております。

 

で北側と南側のコブの間に道があり、東側から西側へ抜けると観音寺中学校があります。中学校の付近に「寛永通宝」の砂絵もあったりします。

そのふたコブの道に興昌寺山に登っていく道(階段)があります。「根あがり松」とかいう看板もあるのでわかると思います。

階段を登るとすぐに松の木が数本あり、確かに松の根が地面から浮き上がっている。

根が上がったのではなく、風雨などで地面が削れていったのかな?

周辺は普通に生えてます。(モノクロ写真)

そこから道が続いているので行ってみます。

少し歩いていくと、「一夜庵」という建物がありました。

観音寺市観光協会HPによると

 

 俳諧の祖、山崎宗鑑(やまざき そうかん)が興昌寺の境内に結んだ庵で

 日本最古の俳跡といわれています。

 建立は享禄元年(1528)で…(略)

 

ということらしいです。

近くには時代を感じる石塔などもあり歴史を感じます。

その横は展望が開けていて、観音寺市街を見ることができます。

 

中蓮寺峰の左側(東)の窪みが猪ノ鼻峠と思われます。山脈は猪ノ鼻から西方向へ若狭峰〜中蓮寺峰〜六地蔵越〜雲辺寺山〜曼陀峠〜へと続きます。

曼陀峠(まんだとうげ)をすぎると尾根が二手に分岐し東へは川之江方面へ、北東方向へは金見山(かなみやま)〜唐谷山(からたにやま)〜大谷山〜余木崎(瀬戸内海)へと続きます。

写真右の高尾山は金見山の北東方向にあり高尾山の南東に豊稔池石積みアーチダムがあります。この写真で云うと高尾山の裏側です。

菩提山は、以前行った粟井神社付近の山です。

 

さてこの興昌寺山から山道みたいなのがあったので行ってみると…。

 

どうやらミニ八十八ケ所巡りがあるようです。運動も兼ねて進んでみました。

基本は弘法大師像とお寺の名前と札所番号・御本尊像の二つセットで並んでいます。

とちゅう、屋根付き堂もあったりします。

 

お、石積みの穴?がありました。これは…古墳跡?

札所によっては3つセットのところも。右のは台座だけ?

 

小規模の山ですが、鬱蒼としていていい雰囲気です。

 

先に出てきた一夜庵の山崎宗鑑の墓跡もありました。

 

第八十八番札所 大窪寺で結願です。

1時間半くらい歩いたので、けっこうな運動になりました。

 

その後、豊浜のスーパーマルナカへ昼食を買いに行く。マルナカ内のイートインコーナーで昼食を済ませ、マルナカの近辺にある一宮神社にある駐車場に車を停めて再び歩く。

一宮神社はマルナカから200〜300mくらいの距離にあり、国道11号線沿いの海のすぐ横にあります。

この日は藤の花が咲いていて見頃であり、一宮神社にも小さな藤棚がありました。

熊蜂もせっせと蜜を吸っていました。クマバチは藤の花を好むらしい。

一宮神社から国道を渡って豊浜の街中へ。豊浜は綿の栽培で繁栄し、綿関係のメーカーが今もあります。(ユニ・チャーム)

なので南北に走る国道と高速道路の間の旧市街地にはいまだに古い街並みが残っている。

南方向へ進む旧道がY字状に集まるところに豊浜八幡神社もあり、大平正芳像(元総理大臣)もあります。

豊浜八幡神社を過ぎると人家は少なくなりまして、その先の小さな吉田川を過ぎると田園風景になります。

その吉田川沿いを上流方向へ歩いてみます。

稲作がない時期は小麦栽培。その先に獅子ヶ鼻城址はあります。山本祐三氏の「観音寺市の山城」では獅子ヶ鼻城は

戦国時代の山城だったようで、城主は大平伊賀守国祐(おおひら・いがのかみ・くにすけ)氏だという。

元総理大臣の大平正芳氏はその末裔だとか、分家の末裔だとか色々説があるそうですな。

獅子ヶ鼻城址の麓には大平国祐氏が創建した国祐寺があります。

 

そこへ向かおうと思って歩いていると田んぼの中に木が生えている場所があったので、何かな?と思って行ってみると…

立て看板があります。何かの遺跡のようなので行ってみました。

どうやら「塚」のようです。読みは「おおきづか」でしょうか。

鎌倉時代はこの辺りはどのような風景だったのでしょうか。もちろん現在のような区画整理された田んぼではなく、

自然地形を利用した変形した田んぼだったのでしょう。あるいは、ただの原っぱとか雑木林だったとか。

タイムスリップして見てみたいものですな。

 

大木塚から東方向へ歩いてちょっと広い道を行くと国祐寺があります。

ちょっと向こうに大きな屋根の建物が見えますが、私はこの写真の右の道を行きました。登ると灯籠があります。

右の木の横の石垣は古そうですね。灯籠は明治期のものです。坂を登ると境内に入ります。

え?さっき見えていた寺の敷地がここまで続いているのか!?

大樹とか石垣とかかなり時代を感じますねー。まっすぐ進むと国祐寺本堂に行けるようです。

 

めちゃめちゃ古いお墓も残ってます。苔むした石垣が雰囲気を醸し出してます。

 

この山(獅子ヶ鼻城址とは違う尾根)の上に上がっていく道があったので登ってみたら、神社がありました。

五十鈴神社。この尾根は台の山公園として整備されています。

桜は散ってますが、満開だと盛大に花見とかできそうですね。

拝殿の横には説明板がありました。

どうやら古墳があったらしいです。

本殿の横にも小さな祠があったりします。整備されていないので歴史を感じられるいい雰囲気です。

降りて鳥居に戻ってから別のルートで下っていくと、先ほどの国祐寺の上あたりに戻ってきました。

左付近の石垣あたりが写真を撮ったところです。

午後は雨ということだったので、長居せずに帰ることにします。

 

振り向いて全景を撮ります。軽トラの上の道が、灯籠のあった坂道です。台の山公園は写真右の山の尾根上です。

中央の国祐寺本堂は新たに増築したのかな?とにかく私が写真を撮った場所はかなり古いところでした。

獅子ヶ鼻城は国祐寺の裏の尾根にあったようです。

 

雨が降らないうちに元の場所に戻るのですが、同じルートでは面白くないので、違うルートで帰ります。

途中、豊浜駅裏の、旧三豊工業高校に寄ります。

すいません、私が通った高校でした。共学とはいえ、工業高校なので女子生徒は全く居ませんでした。

私が卒業したのが平成7年(1995年)3月で、廃校(平成29年3月(2017年))になってからは7年?くらい経ちます。

廃校になったとはいえ「なんも変わってない」です。それどころか、どなたかが清掃してくれているのでしょうか。

右が体育館で、バスケをやってました。当時はスラムダンク全盛期でした。

 

その後、雨が降る前に一宮神社方向へ戻ってから駐車場に帰りました。