中世の城は、姫路城や名古屋城のような天守閣のある城郭ではなく、まさに戦略のための拠点としての詰め城だったようで、

それは城というよりは防御力を伴った居館のような感じだった。そういった小さな、忘れられているような城を調べ上げる強者がやはりおられるようで、山本祐三氏がそれであります。

山本氏は地元香川県の、今の所は西讃・中讃の古い文献や古文書などに掲載されている城の名前を分析して、現在どうなっているかを歩いてまわる、ありがたいお方でございます。それをまとめた本も出版し、地元の書店で購入することができまして、私も三豊市の各町の本を買って読みました。

それから職場のある丸亀市の城をまとめた本も売っていたので早速購入しました。丸亀市といっても、平成の合併前の旧丸亀市ですが。

で、その中にあったのが吉岡城と青野山城です。

 

内容は深くは書きませんが、青野山城は戦国時代に砦・居館としてできたらしく、尾池義長という人が築いたらしい。尾池氏の祖先をめっちゃ辿れば平清盛の弟平頼盛にたどりつくらしい。一方、タイトルの吉岡神社の方は、神社の由来としては、6世紀頃に朝廷から来たという女性が産気付き男児を産んだ。その子は第30代敏達天皇の第二皇子で行方親王(なめかたしんのう)だというらしい。

ただし行方親王が実在したかどうかは不明だというが、この行方親王の墓が吉岡古墳であり、その後に神社が創建されたようです。

 

そういうわけで、現地へ行ってきたわけですが、実はこの吉岡神社は数年前にウォーキング途中に寄ったことがありました。当時はまだ山本氏の本が出版されていない時だったので、神社と古墳があるんだなくらいでした。

▲神社の階段から見下ろしたところで、写真奥は南方向なので讃岐山脈が見える。

場所は丸亀市の青ノ山の南端部分。尾根の端っこに神社は建っている。

 

▲階段を登り、門をくぐると拝殿があります。ちなみに左方向から自動車で上がってこられます。

神社はコンクリート製っぽいので、オーラはあまりない感じです。そして二礼二拍手一礼したあと、拝殿の右側へまわると…

 

▲本殿(こちらは流石に木造)の後ろにまた鳥居と階段があります。石垣まであります。

階段は急ですが登ることができまして、上には玄室跡があります。吉岡古墳は前方後円墳だったようで、玄室があるこの写真の部分が後円のようです。写真の向こう側が前方にあたりますが、ほぼ原形を留めておらず私のような素人はまったく分かりません。

 

▲古墳の階段から見た本殿と拝殿。

 

その後吉岡神社を後にして運動も兼ねて西方向へ歩いて行き、青野山城の方へ行ってみる。

▲ベルモニーがある県道側から入って振り返って撮った写真です。小さな祠と鳥居があります。この部分が青野山城の端っこらしい。

青野山城からして北東の角にあたるこの場所に三宝荒神を祀っているようです。しかし住宅化が進んで他にそれらしい跡は見当たりません。

 

▲反対方向から撮った写真です。この神社を含め、城…というか居館があったとは思えませんな。

ちなみにこの周辺に立つ電柱を見ると「カミブン」と書いてあり、漢字で書けば上分です。

 

▲祠の側面には、地元の方が作った説明書きがあります。ありがたや。

 青野山城跡

 

 尾池玄蕃の城は青野山城と名づけられ現在

 荒神社が祀ってある。その西北部に残り堀が

 残っているが当時の濠の一部を示している。尾池玄蕃

 は平頼盛に出ているが玄蕃の祖父は足利十三代

 将軍義輝である。生駒親正が讃岐に入部

 した時尾池玄蕃義辰を召聘した。義辰に

 三子があったが後末子義長は土器を賜って

 青野山城を築いた。宇多津町郷照寺に

 尾池氏累代の墓がある。

 

 昭和三十一年六月一日 文化指定

 

後半にある”土器を賜って”というのは、この辺りの地名丸亀市土器町のことです。

要するに、生駒親正から「キミ、土器らあたりを領地にしてもええよ」と言われたということです。

 

住宅化したところを見てもさほど面白くもないので、歩いて土器川土手沿いの道に出て南方向へ歩くとすぐに祠がある。

▲常夜灯の灯籠と祠。左は土器川で写真は北方向(河口側)を向いている。

お!?灯籠に「若王子大権現」と書いてある。若王子というのは、吉岡神社(古墳)に埋葬されていたとされる

行方親王の別名が若王子だったと山本氏の本に記載してあった。この祠が何を祀っているのかは不明だが、吉岡神社と関係があるのだろうか。

 

▲同じ場所から東方向の写真です。右の山は飯野山(讃岐富士)。

灯籠と私の影が写ってますね。正面の建物は「上分地蔵堂」と玄関横の板に書いてあります。おそらく広場右の小さい建物が地蔵堂でしょう。

そういうわけで、この日の運動兼城めぐりは終了した。