記憶はおぼろだが、幼いころの私は時々そう思うことがあった。

ひどく叱られた記憶はないのだけど、自分は愛されていないと感じていたのだろう。

 

こんなことを思い出したのは、インナーチャイルド(心の内にある、傷ついたまま放置されていて、こどものままの感情が固着している部分)の勉強会でクライアント役をやらせてもらったからだ。

 

私は日ごろ時々自分が責められているような感覚があって、

自分が責められるのを回避するために

「いや、悪いのは私じゃない、悪いのはあなたの方」みたいな自動反応が起こることがあるのだけど、それは「私は私のままでいい」という自己の存在への承認が十分にできていないことからくるのではないか?という分析だった。

 

こんな私でいいのかな、このままじゃいけない

 

➝変えなきゃいけないところがたくさんある

 

➝こんな私だから人から責めをうけてしまう、責められているように感じてしまう

 

自分はそのままでいい、と思えていたならば、自分が責められていると感じることは少ないかもしれないな。

その分析を受けている途中、私の脳裏に浮かんできたのは、母のつくった私のフォトアルバムを見ている時の光景だった。

 

そのアルバムには、手書きでそれぞれの写真へのメッセージが添えられてあって、

 

私は予定日を過ぎてもなかなか生まれてこなくて、ギリギリになって吸引器(?)を利用したため頭は長く伸びて、顔は真っ赤で、生まれたての姿はまるでサルのようで、かわいい赤ちゃんのイメージとは違っていたこと、

 

父は男の子を望んでいたけれど、毎夜帰宅したら、いの一番で私の顔を見に来ること、

 

が書かれている。

 

大人になった今となっては、それは事実の描写で悲しさはないし、むしろ丁寧に手書きで記録してくれた母の愛と、仕事帰りに一番に顔を見に来てくれた父の愛もを感じることができる。

 

でも、そのときの幼い私は、私が大好きな両親の望む姿でなかったことがショックで悲しかったのだろう。

きっとなんとなく「私はこのうちの子じゃないかも」みたいな感じがしていて、その思いを否定したくてアルバムを見ていたのに、アルバムの中にその答えを見つけてしまったのだから、かなりのダメージだったにちがいない。

 

そして「私はこのままの私であってはいけない、望まれる姿になれるようがんばらなくちゃ」と思い込んだことが、その後の私の人生の筋書きのようなものになったのだと思う。

 

今の私は、両親がたっぷりの愛情をむけて育ててくれたことに感謝しているのだけど、幼い頃というのは親が思ってもいないメッセージを勝手に受け取って、自分を苦しめてしまう思い込みをするものだ。しかもその時のダメージは奥深くに休火山のように静かに眠っていて、ときどきある刺激が加わると、微細に活動しはじめて「私を責めないで」という黒煙を上げるのだ。

 

真相はわからないけれど、自分のことを深く探ってみることは面白いし、自分の中にある「一部」に気が付くことで、だんだんとその部分を自分の手で操縦できるようになっていくと思っている。

 

 

そういえば、私の娘のアルバムの中にある、生まれて間もない日の写真には

「まるで天使のような寝顔」とコメントを記している。

私もこんな風に書いてもらいたかったのね。

よしよし。

 

長文を最後まで読んでくださってありがとうございました。