my日本 奈良県コミュからお知らせが届きました。


noricorico的に説明が難しいので

そのままコピペしちゃいますm(__)m


ヤス・柳原さんからのお知らせです!


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奈良県が受け入れを検討している「梁思成」 氏の銅像についての抗議をお願いします。(´;ω;`)
少々やばい状況です。

奈良県が比較的戦災被害が少なかったのは

中国人建築家の梁思成氏がアメリカ政府に

文化財保護を要請したからだと中国側が主張しています。

それを真に受けた奈良県は、中国がわざわざ作った梁氏の銅像を受け入れ

奈良県文化会館の敷地内に設置して長くその功績に感謝しなければならないことを

日本国民に要求するそうです。

恩着せがましいことこの上ない。


奈良や京都が戦災被害が軽かったのは文化財を守る為だったとする

所謂「ウォーナー伝説」のパクリを中国がやろうとしています。(゜△゜;)


勿論確証はありません。

奈良県自身も梁氏の伝説に確証は無い事を認めています。


でも例え嘘であっても日中友好の為なら悪い話ではないのだそうです。


http://sankei.jp.msn.com/region/kinki/nara/100612/nar1006...
http://www.sankei-kansai.com/2010/08/03/20100803-042077.php
http://mamoretaiwan.blog100.fc2.com/blog-entry-1231.html



「ウォーナー伝説」自体が戦後のGHQの洗脳工作

(空爆や原爆を落としたアメリカに感謝せよ)であって

ウォーナー博士自身も否定しているように今やその信憑性は極めて低いにもかかわらず

その中国式劣化コピーを奈良県が公式に受け入れようとしています。



こんな事を許せば我々日本人は

未来永劫・子々孫々にいたるまで中国に謝罪し、かつ感謝しなければなりません。

この無限地獄的不条理に対し民族的怒りをもって電話抗議いたしました。

奈良県は梁氏伝説に確証は無いことは認めている為、

受け入れ場所については

奈良県文化会館の公的施設内にするかどうかは慎重に検討するとのことですが


基本的に「中国に文化財保護の貢献があった」とするスタンスは変わりなく


「そういうことなので感謝して受け入れるつもり」で検討するようです。

どこまで頭が爆ぜているのでしょうか。

連合国が日本人の脳ミソの中に落とした原爆が

今なお炸裂し続けていることにまるで気付いていないご様子でした。

http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/100717/acd10071...

また、奈良県が発行している「東アジア未来会議奈良2010」 というパンフレットがあり

現在でも役所や公民館・図書館などで自由に受取ることが出来ます。

また奈良県のHPで今も見ることが出来ます。

しかしこのパンフレットの

「日中友好フォーラム」の項目に記載されている説明文の書き方は

看過出来ないものになっています。


引用→
「日中友好フォーラム」開催概要


平城京の時代を中心とした「文化の伝来」に加え

奈良を空爆から守るのに貢献のあった“梁思成氏”等

近代における「文化の保持」に中国側の多大な貢献があったことに感謝するため

これを内外に発信するフォーラムを開催します。日中友好及び文化財交流の促進を図り

文化的観点から東アジアの未来像の構築を考察します。


←引用終わり

http://www.pref.nara.jp/secure/24376/summary.html
http://www.pref.nara.jp/dd_aspx_menuid-8956.htm

奈良県自身が梁氏の伝説には何ら確証がない事を認めているにもかかわらず

この説明文には「奈良を空爆から守るのに貢献のあった」とか

「中国側の多大な貢献があったことに感謝するため」などと断言しています。



一体なぜ不確かな伝説

(偽恩強要とでも言うべき悪質なプロパガンダ)に対し

感謝しなければならないのでしょうか。

国民を騙してまで感謝しなければならない必然性がどこにあるのか。


一体何を根拠に「中国側の多大な貢献があった」と断じているのか。


そもそも近代における「多大な貢献」とは何を意味するものなのか。


県のスタンスとしては、とりあえず「文化の保持」に

中国側の貢献があったということでその前提を基にして

それに「感謝する」という方針を基本的に維持していくようです。

でもそれならば、梁思成氏の名を使用しているこの記述に対し

その根拠を明示する義務があります。
しかしその点については明確にせず、ご意見は承りますとのことでした。

とりあえずこのパンフレットの回収と

奈良県のHPからの削除と共に

HPや広報誌に謝罪文と訂正文を記載することを要望しましたが


この様子ではどうなるか甚だ心もとなく思っています。
日本の子供たちは未来永劫、
「ありもしない罪」で謝罪し、「ありもしない恩」で感謝しなければならないのでしょうか。
悔しくてたまりません。(´;ω;`)

奈良県の人間として激怒しています。
是非皆さまの抗議のご協力をお願いいたします。

奈良県平城遷都1300年記念事業推進局企画課
0742-27-5821
広報広聴課
koho-hp@office.pref.nara.lg.jp
奈良県庁
0742-22-1101
奈良知事室(7行以内の短い抗議はこちらから)
 http://www.pref.nara.jp/dd_aspx_menuid-4249.htm

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・参考資料(あやめ池学園南九条の会HPより)

奈良も空襲を受けた


奈良や京都には空襲は無かったという説があるが

それは事実に反している。


奈良県の空襲について

鈴木良氏編『奈良県の百年』(山川出版社一九八五)

和田萃氏ほか編『奈良県の歴史』(「県史」二九 山川出版社 二〇〇三)

各市町村史、竹末 勤氏『太平洋戦争と奈良の「国宝」疎開』(「歴史地理教育」四五一号)

私の『奈良・京都の空襲と東大寺の国宝疎開』

(東大寺学園中学校・高等学校「研究紀要」第七号一九九五)と

『奈良市白毫寺町の空襲と興福寺の国宝疎開』(一九九六)という論文

堀内義隆氏『田原本町満田の空襲』

『五條の空襲』、赤阪かず子氏『荒坂峠-被爆記』


などによって述べてみたい。



一九四五(昭和二〇)年の奈良の空襲は表の通りである。空欄は不明である。
なお『奈良県の歴史』には、現在までに当時の新聞や市町村史などに記載されている


県内の空襲被害は

合計二〇件、死者三二人、負傷者九〇余人、焼失家屋四十数戸と記されている。


なお、同書には次の記事もある。



ウォーナー伝説の実態


今までならと京都が空襲をまぬがれたのは

ラングレン=ウォーナー博士のおかげだとする「ウォーナー伝説」が広まった。


しかし、最近の調査で小規模とはいえ空襲があったし

なによりも爆撃の対象である軍事施設・軍需工場などが少なかったことが大きな要因であったといえる。


当時あった軍事施設としては

第三十八連隊、奈良海軍航空隊、大和海軍航空隊、大阪兵器廠北宇智村燃料倉庫ぐらいであった。


文中のウォーナー伝説について、鈴木良氏と吉田守男氏の説を紹介しよう。


鈴木良氏は『地域史と歴史教育』(木村博一先生退官記念論文集一九八五)で、

吉田守男氏は雑誌『世界』(一九九三年五月号 岩波書店)で、次のように批判している。


アジア・太平洋戦争中に、アメリカでウォーナーが中心になって

戦争地域の文化財のリストをつくったことは事実だが

その目的は「ドイツなど枢軸国に略奪された文化財を取り戻すこと(返還)が目的で(中略)

文化財に戦火が及ぶのを予防するという意味で、保護ではなかった」(吉田氏)という。



また、「同氏(ウォーナー博士)はのちに『京都・奈良を救った功績』を云々されるたびに迷惑がり

自分は委員会の一員だっただけであることを強調したという(中略)。


私は、ウォーナー功績説は虚構のものであり

それはGHQとマスコミによって作られ

法隆寺金堂失火事件を機会にさらにひろまった」(鈴木氏)のである。



田原本町満田の空襲

一九四五(昭和二〇)年六月一五日午前二時ごろであった。

村では麦刈りや田植えで農繁期であったが、若い人は軍隊に招集され

農作業は遅れていた。そこへ突然B29が飛来し

焼夷弾を落とし(約一万発という小型爆弾も含む)機銃掃射を行った。

その爆音や屋根瓦の被れる音などはすさまじかった。


満田には約六〇戸の農家があり、焼夷弾で全焼したのが一七戸

本屋が全焼し納屋などが残ったのが八戸、納屋・堆肥舎のいずれか焼失したのが三戸であった。

家財や農具、供出米なども一瞬にして灰になった。


突然の大火事で、平素の防火訓練や消防車は役に立たなかった。


死者は、焼夷弾の直撃で二人、焼死一人、ショック死一人の計四人、

負傷者一人であった。その中には、大都市からの疎開者もいたという。


戦後の復興がたいへんだった。(堀内義隆氏の『田原本町満田の空襲について』に依る)



北宇智村の空襲


北宇智国民学校 十九四五(昭和二十)年八月八日、早朝に全学生が氏神社にはだし参りをした。


午前八時ごろ空襲警報が出る。急いで児童(疎開児童が増え一クラス七十~八十人)を下校させた。


突然艦載機の機二人の先生(うち一人は夫が出征中まもなく戦死。

他の先生は一人娘であった)と逃げ遅れた児童一人(大阪からの疎開者)が即死

二人の先生が左足切断の重傷、他にも十数人の負傷者、校舎破損の被害が出る。


負傷者は傷の手当に医院へ急行した。田舎の学校では防空壕はなかった。




国鉄北宇智駅


駅に停車中の旅客列車に機銃掃射、乗務員一人

乗客は重傷十九人、軽傷約三〇人の被害がでた。

死傷者の救出・手当ては不明である。


また、五條町の大川橋でも婦人が一人死亡した。


(『五條の空襲』、赤阪かず子『荒坂峠-被爆記』)




奈良の国宝疎開

空襲によって、寺社の国宝が焼失したり破損したりするのを避けるために

戦時中、寺社では国宝を地方へ疎開させた。


その状況を、前掲の『奈良県の百年』『奈良県の歴史』や竹末氏と私の論文

鈴木良氏の『太平洋戦争と文化財』(「歴史地理教育」第三六六号)という論文から述べてみよう。



東京帝室博物館と正倉院の疎開


国宝・重要美術品をいち早く疎開したのは、東京帝室博物館(以下、「東博」と略称)と正倉院であった。

「東博」は一九四一(昭和一六)年に法隆寺献納御物や館蔵重要美術品を

奈良帝室博物館(以下、「奈良博」と略称)に移送した。


なぜ東京から奈良に送られたか。


それは、当時奈良は軍部から「防空上第一位ニ属スル安全地帯」とみなされていたからだという。


「奈良博」は移送品を階下に収納したが、地下室を新設する計画もあったという。
また緊急時には奈良市法蓮町にあった関西線(大仏鉄道)のトンネル内に保管する計画もあったというが

これは立消えになったという。


正倉院は、約四五〇件の最貴重品を、一九四三年に改装補強した正倉院の事務所と「奈良博」に移送した。

大仏鉄道のトンネルは奈良市民の避難場所であったので断念したという。



県下の寺院の国宝疎開

次は寺社の国宝疎開であった。

一九四三(昭和一八)年に政府は「国宝・重要美術品の防空施設整備要綱」を閣議決定した。

そして、翌年県当局は文部省と相談して東大寺・興福寺・法隆寺の擬装と国宝疎開の実施を決めた。


一九四四年一月に東大寺に各界の代表者が集って

「国宝建築防空設備及国宝疎開問題につき協議会」が開かれ

疎開する国宝の調査や搬出方法を決定した。
次に疎開した県下の主な国宝・重要美術品の名称と疎開先を一覧表にしてみよう。(右表)



国宝疎開をめぐる諸問題

国宝疎開といっても順調に進んだのではなく

いろいろ苦難や問題があったようである。その事例を少し述べてみよう。



法隆寺


笠置に国宝疎開したときのことについて

『法隆寺日記』(昭和二十年六月二五日)に

「昨日運搬車の手違い且つ蔵の床 板破損の為め予定の通り運ばず、其上、大雨大困難を強行せり。


雨の為「如意輪観音像」小破、同光背が大破」と書いて ある。
運搬したときの手違いや大雨のために仏像が破損したというのである。
また前掲の日記に「八月二九日夜に百済観音を疎開していた家から出火する惨事もあり

宝物を笠置へ再疎開させるとい う混乱もあった」という記事もある。

疎開先で火災がおこり、別の家に仏像を移したというのである。

(高田良信長老の 「私の法隆寺物語」『奈良新聞』二〇〇八年七月二一日号)。


東大寺


①「元気な男の人はほとんど出征していて仏像を運搬する人がおりません。

困っていたら県が刑務所を頼んで受刑者を動員、大きな担架をこしら えて歩いて運んでくれました」

(堀池春峰氏の話『朝日新聞』一九九三・四・六)。


②疎開中に空襲があり、仏像を守るために

繁みに避難させようとしたところ像が破損した。

戦後疎開先から帰ってきた仏像をみると、仁 王像の阿形像の頭が取れ

吐形像は背中に穴があき、四天王像は手が折れるという状態になっていた。


これらの像は戦後修復がおこなわれた

(『南都の匠 仏像再見』 

辻本千也 青山茂 徳間書店 昭和五四年、『日本美術工芸』2-665 平成六年二月一日発行)。



③国宝建築物の保護のため

解体移転・擬装工事・貯水池・防火防弾壁などの増築が行われた。


東大寺では、大仏を守るために大屋根に擬装網がか ぶせられた。

文部省から二月堂登廊・大仏殿袖廊・法華堂などの解体が要請された。


一九四四年九月の住職協議会では不同意であったが

四五年三 月には前の二つは同意したが

法華堂解体は信仰上支障があるとして不同意であった。

その理由は、仏像と堂字は一体のもので

参詣したのに礼 拝する仏像がないのはおかしいとのことであった(後呂の前掲論文)。


興福寺


一九四五年五月四日の日誌には次の記事(要点)がある。

国宝疎開の経費について県の技師が来て

昭和二〇年度から文部省は半額しかださないので

あとの半額は県と寺院から出してほしいと言った。


なお、総 経費七五〇〇円、疎開先の倉庫の借用料五〇円(一ケ寺に付き月五〇円)

監視手当(四人分)一人一ケ月一〇〇円で、寺から四〇〇円だしてほしいという ので

寺ではそれは困難でせめて半額ぐらいにしてほしいと言って確答を保留した。


次に五月一六日の日誌には次の記事(要点)がある。奈良の博物館員が来て

館としては残る国宝をどこへ疎開するにしても運搬費用が困難で悩んでいる。


文部省 も県もその費用を出さないので困っている。

そこで国宝を疎開するのであれば、その費用は寺で負担してほしい。


この記事を読むと、寺では国宝疎開に要する諸経費の負担に困っていたことが分かる。


なお、「奈良博」に預けてある阿修羅像など

八部衆一五体の仏像は吉野山の舟知家に疎開することになったが

その運搬は刑務所の助力を得て運搬した。地元の警防団員 も協力してくれたという。

仏像を疎開した土蔵は今も残っている。

運搬費その他の経費は戦後帰還するときにも寺が相当負担したのであった。


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 今回の目的は、

・奈良と無関係な銅像の拒否。

・「奈良を空爆から守るのに貢献のあった」とか

 「中国側の多大な貢献があったことに感謝するため」などと記載していることの訂正

・訂正の告知を行わせる事。

・誤ったパンフレットの回収。

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以上コピペさせていただきました。

文章作るの大変だったと思いますが

簡単に貼ってしまってすみませんm(__)m


当時のアメリカさんが1人のおじさん(梁思成)のお願いを

受け入れるなんて考えにくいし

そもそも奈良県も「よく判んないけど中国と仲良くするには銅像いいよね~」って

思ってるなんて・・・(((( ;°Д°))))


ワタシ、奈良県民イヤになったので実家に帰らせていただきます(`Д´)


いや、そうじゃなくて~受け入れ抗議します!