日本書紀では崇神天皇の時代、古事記では垂仁天皇の時代、農民のためにこの池を作ったと書かれていますから、奈良時代にはもうあったのでしょう。
そしてそれが人造池であることも知られていたってこと。
古事記では、池を開墾したのはイニシキイリヒコ。
垂仁天皇の皇子であるとしています。
個人的にとても気になるのは、皇子の名にある「ニシキ」。
和泉は女首長のニシキトベが統べていた地域。
以前も書きましたが、縄文部族は女系が多いんです。
そこに「イリヒコ」つまり、婿養子に入ったと読める名前……。
垂仁天皇は、女系らしき氏族と強い関係を結んでいますし、力により支配しようとするのではなく、技術の伝承と教化により、土着の人たちと連携しようとするリーダーだったのじゃないかと、勝手に想像しています。
妄想ですけどね(^^ゞ
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