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喋れば喋るほど自分の障害の深刻さを露呈するはめになるのに、それに気づかずおばあさんと話を続け彼女を横目でちらりと見て共感性羞恥に似た気持ちを抱く。


もうやめてくれよ。

そう思って数十分経った頃、彼女はようやく店を出ていった。
発達障害カフェに行ってきまーす、と言って。

発達障害カフェ。
昔はよく聞いたが今も健在なんだな。
発達障害カフェといえど、そこに集うのは発達障害のみならず境界知能や軽度知的障害を持った人たちなのだろう。

私は昔から境界知能や軽度知的障害者のみでコミュニティを作ることを良く思っていない。

知能に問題がある者同士で話し合いなど出来るのか疑問だし、仮に話し合いが成り立ったところで人間的成長を望めるとはとうてい思えないからだ。
ただの傷の舐め合いをしているにしても、そんなことに何の意味があるのか、と冷笑的に思ってしまう。

また私が最近懸念していることは境界知能や軽度知的障害者が闇バイトに巻き込まれたり性的搾取をされている事実が多いことだ。

恐らくそういったダークな世界に入ってしまう人の周りにはまともな健常者がいないのではないか、と私は考えている。

朱に交われば赤くなる、とはよく言ったもので、人間は弱い生き物でどうしても他人に影響されてしまう。

同じ境界知能同士が集まると、良からぬことに巻き込まれがちになるのではないか、というのが私の想像だ。

その点、まともな健常者が周りにいれば、判断を誤った時に正して貰えるかもしれないしそもそも危険な事態に巻き込まれる確率は低くなるのではなかろうか。

優秀な健常者と一緒にいることで彼らから学べることは多い。
それに危険な事態から身を守ることも出来る。
なら境界知能こそ優秀な健常者と一緒にいるべきではないか、というのが私の持論である。

しかし実際にそのような、つまり優秀な健常者だらけの環境に身を置くのは難しいのも事実であろう。

人間は自然と自分と同じレベルの人間でコミュニティを作る。
そうなると境界知能の周りには境界知能や、境界知能から搾取しようとする人ばかりになってくるのは当然の理だ。

また多くの境界知能は優秀な健常者と接点の持ちようがないだろう。

それにたとえ接点を持てたとて、健常者のほうが境界知能の人間に合わせられず離れていくことも考えられる。

境界知能と健常者の間に深い溝があることは事実だ。
それでも互いを尊重し合って互いを思いやりながら支え合って生きていくことは出来ないのだろうか。

境界知能のコミュニティを作るなとは言わない。
しかしそのコミュニティの中に物事を正しく判断してくれる健常者を入れることは重要だと私は思う。

健常者が嫌い、という境界知能の人間もいる。
境界知能が嫌い、という健常者の人間もいる。

だが我々を境界知能と健常者に分けたものは何であろう。
それはただの運だ。
生まれてくる姿は誰も選べない。

もしかしたら私が健常者だった可能性がある。
もしかしたら貴方が境界知能だった可能性もある。

それを考える想像力があれば境界知能も健常者も分かり合える日が来る。

私はそう信じたい。