今日は子どももいないし相方も帰宅が遅いというので

ぼおっとテレビを眺めてたら(ほんと最近のテレビはつまらないなー)

母から電話が。それも2回も。

ヒマなのでゆるゆる、つきあって聞いていたのだけど、

なんかもう、ぐじゃぐじゃどろどろした話でおなかいっぱいになってしまった。

これって「渡る世間は鬼ばかり?」みたいなものかしらん。

誰のためとか、彼のためとか、ああすればこうなるとか、

こうすればああなるに違いないとか。

すべてに主語がないので聞いててもわけがわからない。

それは誰が言ったの、誰が思ったの(考えたの)といちいち確認して聞くのだが、

ほとんど妄想みたいなお話で、それ以上でもそれ以下でもない。

でも、母はしゃべりながらひとり勝手に合点している。


モノゴトをあえて、ぐじゃぐじゃどろどろにしていく、

というのも、生きていくうえでの一つの戦略なのだろうか?

いろいろな人間の思惑、利害にあえて絡めることによって、

直接「対象(相手)」とむきあわず、じぶんで決めないですませる。

ごちゃごちゃしながら生きていくというのも一つの知恵なのだろうか?

それは問題をじぶんのものにしない。

みんなのものにしていこう、という企てなのだろうか。

でも、じぶんの手を汚さず、誰かに担ってもらおうというのは、

あまりにも虫が良すぎるのでは?と思う、

わたしは冷淡なのだろうか。

傷ついた、傷つけられた、と言い合いながら関わりつづける。

そういうのはもう、いいよ、と思ってしまうのだ。

もう、さんざ、やってきたじゃない?>お母さん

子どもはどうしようもなく、ふりまわされてしまうんだよ。

子どものためとか言って、いい人ごっこするの、もうやめようよ。


子どものため、なんてさ・・・。

それ、子どものため、じゃなくてじぶんのためじゃないの?

子どもにきいてみたらどうかな。

子どもは親思いだから親の気持ちを代弁してくれるかもしれないね。

結局、子どもの本当の気持ちなんてわからない・・・

親がじぶんの本当の気持ち(しがらみや欲望や)に気づいて、

そんなじぶんにむきあって

じぶんに正直に生きていくしかないんじゃないかな。

そう、わたしは思うんだ。


きっと、母はやさしい人なんだろうな。