進撃の巨人の漫画を読み進めました。
漫画喫茶に置いてある最終巻まで読んだので物語はまだ完結してないみたいですね。
スピンオフみたいなのも置いてありましたが、それは読まないことにしました。
ここからはネタバレになるので、まだ読んでないよ、という人はとりあえず読者登録をして下さい。(意味がわからない)
読書後の熱量もあるので、僕の思ったことを書きます。
まずね、この進撃の巨人の作者は学生時代を童貞のまま過ごしたと思うんですよ。
作者だけでなく編集の人もきっとそうだと思うんですけどね。
思春期の若者たちを描いているのに、エロい要素が全く感じられないわけです。
別に女になんか興味ねえよっていう、思春期の感性が最も過敏で多感な時期を彼女とイチャイチャするわけでもなく、青春を男のロマンに捧げるしかなかった側の世界観なんですね。
いわゆる男子校の童貞感があるわけです。
作品には残酷な描写もたくさんあるのですが、この作者はユーモアと照れのバランス感覚がとにかく優れているので、高い壁の上を目隠しで歩いていてもどちらかに転落するようなこともないわけですね。
だからこそ、このテーマを扱えるわけですよ。
残酷な世界を笑いと照れが包み込んでいるような、大風呂敷を手首に巻き付けて拡げているような、作者自身が命を狙われかねない覚悟すら感じられる作品なわけです。
僕らの世代だと、小林よしのりの戦争論を読んだときの感覚に近いのかな。
進撃の巨人はそれを戦争の善悪だけではなく、自分の中にある正義や信念や愛や幸せの価値観も生まれた環境によって作られたものだと、そこの種明かしをしちゃうわけです。
作者は、この残酷な世界にペンという刃を突き付けてるわけです。
国家や宗教の仕組みすらも暴いてしまうわけです。
人類を描いた最強のエンターテイメントなんですよ。
NHKが国営放送局として進撃の巨人のアニメを放映することが面白いわけです。
最終的に進撃の巨人を池上彰が解説をしたら日本の新しいページが1枚捲れると思うんですよね。
現実問題として欧州では徴兵制が復活してるわけで、中東やアジアでも宗教や思想で武装した壁はあるわけです。
そのような国家や民族という大きな単位だけでなく、その中にある小さな家庭内にも様々な環境によって人間は育つわけですよ。
残酷ではあるけれど、それこそが性善説のような美しさでもあるわけです。
環境によって善悪の正義が異なるわけで、人間は生まれながらにその両方を背負わされているわけですね。
何かしらの洗脳から回避したり、それらを選択する余地は誕生の瞬間から僕たちにはないわけです。
作られた世界で、描かれた物語の中で、僕らは生きているわけです。
ようするに、辛いと感じながらも生きている弱き者こそが、この作られた世界に抗っている進撃の巨人でもあるわけですよ。
僕も色々と過去を振り返ってみても、疑問だったことがあったんですね。
甥っ子が生まれて2才になったばかりで、言葉はまだ喋れない時期のことでした。
2才の甥っ子は自分が遊ぶ猫の置物を茶箪笥のガラス戸を自分で開けて取り出したんですね。
これは遊びたい目的なので理解できますが、驚いたのは遊びが終わって、つまり、対象物に興味がなくなるか飽きたわけです。
それを母親である兄嫁が“ないないして”と片付けるように言うと甥っ子は再びガラス戸を開けて元の場所に戻したわけです。
2才ですから、まだ甥っ子の全ては雰囲気や空気感だけの世界だとして、遊んだ物を元に戻す行為も生きる術のような感覚でやるわけですね。
画用紙にクレヨンで落書きをしていても、画用紙からはみ出して書いて汚れた畳を母親から渡されたウエットティッシュで甥っ子は自分でそれを拭き取るわけです。
それを間違いや失敗ではなく、畳の落書きを消すことも遊びに含まれるような認識だと思うんですよね。
これが生まれて2年しか経ってない人間だとしてね。
全てを初期化しないと、同じ目線で理解することは難しいわけですが、明らかに家族の空気は読めてます。
おかしいなと。
実家で兄貴夫婦と甥っ子が帰ったあとに両親に聞いてみたんですね。
「あれはどう見ても本人は全てを楽しんでやってる」と。
楽しみながら学習した結果が環境に適応するように調和もされてるわけですね。
遊んだら片付ける、汚したら掃除する、生まれて2年でこれが可能だという現実が目の前で起きたわけです。
この実家で僕も成長したわけで、茶箪笥もずっと同じ位置にあるし、この景色や空間は甥っ子と僕は同じ環境だったのだ。
僕の中で1つの謎が浮かんだので、それを母親に聞いてみたわけです。
「どうして俺に勉強をさせなかったんだ?」と。
宿題や勉強をしなくても怒られない環境で僕は育ったわけです。
6才上の兄貴は長男なので、それなりに叱られたり勉強している姿は弟の目線で見ていました。
僕の育った地域の田舎では小学生は大きく3つに分類されていて、学校が終わったあとにやることは決まっていました。
学童野球をやるか、そろばん塾に通うか、泥だらけになって遊ぶか、そのどれかだったのです。
高学年になるにつれて最終的には進学塾に通うことになり、それによって友達関係も変化していくわけです。
僕は最後まで泥だらけになって遊んでいたわけですよ。
専業主婦だったので学童野球には入る選択肢も興味もなかったのですが、そろばん塾はその教室の中は楽しそうだった記憶はあるわけです。
その決定権は親にあるわけで仕方ないことですよね。
ただ、今になって思うのは、そろばんを習うことは、脳内に暗算アプリを搭載するのと同じことなんですよね。
九九は暗記すると便利だから丸暗記するしかないわけですけど、生きる知恵としては必要になりますからね。
つまり、育て方は親が決めてるわけです。
母親の考えとしては「うちの子には計算したりするようなことは向かないと思った」と。
基本的にうちの母親は誉めないですし、子供に対して過度な興味もないので、僕はそのままバカになったわけですけどね。
ただ、6才上の兄貴は工業系の高校に進学したので実技試験の練習を夜遅くまで父親と居間でやっていたのを夜中にトイレに向かうときに僕は見ていたわけです。
自分もいつかはああいうことをやるんだろな、と小学生ながらに学習したわけです。
兄貴はそのような仕事にはつきませんでしたし、僕は工業系の高校ではなく商業科のアホ学校に通うことになったわけです。
そして月日は流れて現在の僕は兄貴が高校で学んでいた学科の内容を仕事する職人になったわけですよ。
僕の中でも、兄貴がやってたやつだから自分でもやれるだろうと。
兄貴が夜遅くまで父親と喧嘩しながらも泣きながら練習していた国家資格にも僕は合格して、その翌年には更に上の国家資格にも合格したわけです。
資格だけなら兄貴を超えたわけですが、それが家族からすると謎になるわけです。
考え方としては、高校の入学金やら授業料を兄貴に3年間も投資したとして、その3年間という時間とお金と専門知識を僕は働きながら独学でそれを上回る資格を手にしたわけです。
弟の僕からすると、夜中にトイレに向かうときに廊下から見た居間での光景が将来であり、未来だったわけです。
あそこの居間で兄貴が医学書を読んでいれば僕は医者になったかもしれないし、六法全書を読んでいれば弁護士になっていたかもしれないと。
それは可能性としてはないですけど、そういうもんだと世界を理解することは必然性を帯びるわけです。
基本的に弟は兄を越えてはいけませんし、計算が得意で頭が回れば遺産相続で兄と揉めるような考え方になっていたかもしれません。
僕は肉体労働者階級ですが、周りにバカは腐るほどいますが、僕は誰とでも喋るタイプなのでバカですけど、それぞれみんな考え方はあるわけです。
子供の教育に経済力が必要になることも分かりますが、そこまで子供の学力を望んでいる親って少ないわけです。
なんとなくですが、親には底辺でも生き延びるだけの知恵や実力があるので、その中で幸せを感じた場合には底辺からの落ちシロは少ないわけで、子供に過度な期待もしないわけです。
僕は独身ですが、結婚している親はその子育てをする過程で、世界の真実を悟るからだと思うんですよね。
誰かに愛される喜びよりも、誰かを愛する幸せの方が主導権は自分の中にあるわけでね。
残酷なほど美しい世界に意味は必要ないのかもしれません。
進撃の巨人の作品内ではあらゆる壁の向こう側にも同じような世界があることを描いています。
敵と味方、正義と悪、立場や環境が違えばそうならざるをえなかったと。
人類を肯定している作品でもあるわけです。
ただ、1つだけ進撃の巨人では描かれていない壁の向こう側があります。
それは女の胸の内側です。
ヒロインがツンデレなんですが、作者はたぶん、それすら興味ないと思います。
女の心理描写を男が無責任に描かない、そういう作者の男の子としての照れが最大の壁として作品の世界観にあることで、それは残酷な世界でも向こう側にある希望であり救いなんですよね。
男には越えることのできない壁とは女心なんですよ。
女ってのは巨人の民なんですよ。
おお怖っ
((((;゜Д゜)))