コトバのチカラ | 天狗と河童の妖怪漫才

天狗と河童の妖怪漫才

妖怪芸人「天狗と河童」の会話を覗いてみて下さい。
笑える下ネタ満載……の筈です。

どうでもいいから、とりあえず、この言葉を、この言葉だけでも、それだけでいいから、お願いだから、この僕の言葉を、この言葉だけでいいから、僕の言葉を聞いてくれよ、これが今の僕の全てだから、僕の存在の全てを託した言葉だから、それだけでいいから、頼むからちゃんと受け止めてくれよ。



思春期なんて誰でもそんなもんだろうけど。



会話の中で僕だけが溺れているような、そんな息苦しくて絶望的な感覚を婆ちゃんの三回忌で実家に帰省したとき、10代の頃の忘れ物を思い出したようだった。



まだ実家に住んでいた高校生の頃、僕は休日になると引きこもりのような生活をしていた時期がある。



それをよろしくないとする母親と兄貴から“外に遊びに行け!!”と、さんざん説教をされていた。



それまでは友人の自宅へ遊びに行っていたのだが、その友人が高2の時に病気で亡くなってしまい、僕としては遊びに行きたくても遊びに行く場所がどこにもなかったのだ。



だけど、それを理由に、それを自分が家に引きこもる言い訳にはしたくなかった。



もちろん、それを素直に兄や母親に伝えたとしても、それは最低な言い訳だと烈火の如く非難されたら、僕の脳みそも僕の感情も僕の言葉や存在は世界から居場所がなくなる。



だからといって別の言葉として家族に自分の感情を伝えられないもどかしさもあった。



その友人が亡くなった1ヶ月後には今度は彼の父親が病気で亡くなった。



葬儀のときに見た彼の母親もお婆ちゃんも妹の姿も当時の僕には抱えきれない出来事だった。



こんなことをブログに書くという行為が許されるのであれば、許して欲しい。



うちの家族は宗教をやっているので、僕は幼い頃からそのような環境で育っている。



在家信者ではあるが、曾祖母から数えると4代目にはなる。



俗に言う、は的確ではないと思うけど、生まれながらに救われている、というやつだ。



僕と兄は宗教活動はしていないが、それでも植え付けられた思想が実生活で邪魔になることは幼い頃から感じていた。



自分の中の正義は自分の中にあるので誉められることはない。



誉められることを求めて行動をしてはいけない。



そうなると僕の中の真実とは違った物語として、僕はとんでもないことをする子供として話が家族に伝わる。



そして、なぜか、家族からはそれがそのまま、僕の形として定着し、それをそのまま背負うことになるのだ。



問題児であると。



それはそれで構わない。



それはそれで構わないのだが、それはやがて言葉を操ることすら許されない存在となった。



お前は何もわかってないと。



お前は相手の気持ちを考えられないと。



もちろん兄と母が僕のことを心配してくれていることも家族なのだからわかる。



休日になっても外に遊びに行かずに家に引きこもっている存在とは、心配であり、それは迷惑でもある。



ショック療法が目的だったのか、いや、そう思わなければ僕のショックが緩和されないような、強い言葉で僕は非難されるようになった。



気持ちが悪いと。



今なら笑えるが、思春期の青年が肉親である兄と母から笑いながら言われたら傷付くのは当然である。



どのようなリアクションを僕に求めているのかすら正解がわからなかった。



とにかくそれまでの兄や母から見える僕の形と、僕の中にある真実には大きな違いがあった。



兄と母はそのサイズの僕に向けて、そのサイズの僕にショックを与える目的で、そのサイズの言葉を口にした。



だけど、僕は、そのようなサイズではなかった。



家にずっといるなんて犯罪者みたいだな?



お前は誰かに似てるな?



誰だろな?



あっ、お前、あれに似てる!



神戸の…








この瞬間に僕は死んだ。



似てる、似てる、そっくりだ!!



行く先など、どこにもないのに、僕は泣きながら自転車をこいでいた。



この家族は狂ってると。



自分の兄と母親から殺人者に似ていると言われたら細胞が沸騰する。



自分の中に流れる血の冷たさを感じる。



僕の言葉も僕の感情も僕の表現の全てが、それは違う、と否定されるのだ。



それを“修行”という、漢字たった2文字だけで飲み込めるわけがねえ。



何かが違う、何かが違う、その何かを伝える表現が僕にはなかった。



僕には言葉がなかった。



兄の意見も母の意見もその全てが間違っているわけじゃないことも、残念なことに、それすらもう理屈として分かる年齢だったのだ。



自分が不良にはなれないことも、その不良の結末も知っていた。



中学時代の友人の大半は同じ高校に進学した。



みんなバカだったからだ。



その大半は中退して、定時制の夜間に通うようになっていた。



学校が違うのもあるが、僕が下校する時間が彼らの登校時間なので、生活リズムが違っていた。



それに僕は煙草を吸うことを親からは許されてなかった。



真面目な親だから当然である。



ただ、真面目過ぎるので、溜まり場になっている友人の部屋には僕の母親が乗り込んできて友人達を帰らせるのだ。



つまり、僕が遊びに行くと友人たちに迷惑が掛かることになったのだ。



まぁ、友人の部屋の中で花火をやったりしたのが、うちの母親が乗り込んできた原因だとは思う。



そりゃ火事になったら大変なのはわかるけど、高校生にもなれば花火の種類だってちゃんと選ぶし、とりあえず1番地味な感じの花火に点火するわけだけど、それでも部屋中から黄色い煙がモクモクと出ていたら怒られるのは当然だとは思う。



いま思い出しても面白いけど。



もう少しヤンチャな友人は自分のバイクを誤って燃やしてしまい、そいつは幼馴染みで家も近所なのでその友人の母親が慌ててうちに消火器を借りに来ていた。



他には先輩から命令されて殴った相手のバックが本職で、監禁されて逃げれたものの地元を追われた友人もいた。



同じ中学から進学したほとんどの友人たちが高校を辞めてしまったのだ。



学園の治安が悪かったのだ。



当時の僕たちの商業科は男子だけで校舎も離れたら場所にあって木造校舎だった。



当時ブームだった、たまごっちを育てていたのだから間違いなく平成の時代だったとは思うが、あきらかに木造校舎で、しかも僕の座る机のその目の前には、30センチ程の四角い柱が立っていた。



担任から出席番号順に座るように言われていたが、何回数え直しても机の前には柱が立っているのだ。



物置だった壁をぶち抜いて教室を拡張したような、そこに近県のバカ共を大量に詰め込んだ感じ。



それでも最初は女子が木造校舎まで訪ねてきて、呼び出された男子が告白されて付き合うという流れがあり、それが男子としてはイケてる証となった。



中学時代の友人たちにも彼女がちらほら出来始めたタイミングと同じくらいに、先輩や他の中学出身の連中から目を付けられてシメられるのが重なったのだ。



残念なことにうちの中学出身の悪い先輩は高校を退学していたので僕らの代には後ろ楯の存在がなかったのだ。



毎日ビクビク過ごしてるだけでちっとも楽しくはなかった。



中退した友人たちからはあの高校を無傷で卒業しただけで僕は称賛されたくらいだ。



まぁ同じ中学の友人たちが10人近く辞めたわけだけど、その流れで僕も一緒に辞めさせてくれる母親でもない。



田舎なので他の中学出身の友人とは自宅との距離感も遠いし、異動手段である電車の本数も平日の昼間は乗り過ごしたら1時間は平気で待つことになる。



それで高校を辞めていない友人と遊ぶようになったのだが、残念だけど、亡くなってしまったのだ。



僕としては親の言うことも理解していたのだ。



自分が不良になれないことも分かっていたし、中退した連中とも進む道がたぶん違うことも、それまでのこととこれからのこととは違うのだと。



けれど、人は死ぬのだ。



幼稚園から高校まで一緒だった友人が亡くなったのだ。



友人の家に友人が横になり、友人の母ちゃんから、顔を見てやってくれる、と言われた。



見たくはなかった。



見たくはなかったけど、見なくちゃいけない場面なんだと思った。



それから葬儀になったが、学生時代には死んだらダメだと思った。



僕には宗教という感覚が少なからずあるから、お坊さんが拝むという行為や供養という行為が身近だったこともあるので、この場がどういう場なのかはなんとなく理解していた。



けれども、葬儀に集まった中学校時代の同期生たちの感覚は僕の感覚とはまるで違っていた。



会場の外に一歩出ると、それは同窓会だった。



おぉ久しぶり、背伸びたな、こんな会話が飛び交っていた。



興味本位で棺を覗きに行ったやつは、みんなのいる場所に戻ってくるなり大声で「すげー気持ちわりぃ」と感想を伝えていた。



いや、どれも、若さゆえの素直で正直な感想だとは思うけど、僕にはそれもショックだった。



学生時代には絶対に死んでなるものかと眉間に皺を寄せて何かを睨んでいた。



そうしてないと自分を保てなかった。



もちろんちゃんと場をわきまえた態度の女子もいたけど。



高校の友人のクラスメイトが全員集められてるのも違和感があった。



代表で弔辞を読んでいた学級委員も友人と親しいわけではなかった。



僕たちは君のことを決して忘れないと結んだ。



感情の置き場がわからなかった。



その1ヶ月後の友人の父親が亡くなった葬儀に集まった高校のクラスメイトは1人もいなかった。



友人の婆ちゃんと母ちゃんと妹が立ちながら泣いている姿が今でも記憶に残っている。



僕は気持ちの整理がつかないでいた。



部屋で中学の卒業アルバムを眺めていた。



そこに兄がやってきた。



思い出になんか浸ってんじゃねえ!!と怒鳴られた。



僕は卒業アルバムを引き裂いた。



言葉がなかった。



己の感情を相手に伝える言葉が僕にはなかった。



部屋に引きこもってる弟が中学の卒業アルバムを眺めていたら、それはきっと兄なりのエールだったと美化するつもりはない。



シンプルに弟が気持ち悪かったのだ。



この時期はとにかく兄とも母親ともよく喧嘩をしていた。



それが反抗期だと言われればそれまでだけど。



具体的には鏡を見て自分の顔の中に兄の面影を感じるだけでも戦慄が走った。



兄弟だから似てるところがあるのは当然なのだが、そのような拒否反応が出ていた。



兄と母親がタッグを組んで僕を非難するのが本当に嫌だった。



僕が感じた僕の感情や僕の記憶が全て違うと否定されるのだ。



宗教に対して僕が拒絶したり批判したりするのが悪いのかもしれないけど。



兄は兄で青年部の活動に何回か参加したらしいが幹部の人と喧嘩して辞めたのだ。



それから兄は独自のスピリチュアル路線に走る。



母親は宗教とは別に通信制の大学で心理学と脳科学を学んで論法に磨きを掛けていた。



兄にしても、母親にしても、このノウハウが他人に向けて正しく作用する分にはいいのだが、むしろ素晴らしいことなのだが、これが身内に対して反転した場合には会話になどならないのだ。



仏教的な因縁も科学的には遺伝になる。



そもそもは宗教的な価値観で育てたのは母親である。



これを説明する段階でも母親どうのこうのと心理学的な解釈が飛んでくる。



お前は素直じゃないとか言われるのだ。



素直なフリをするのが下手くそな時点で、それはもう素直でいいだろ。



考え方がひねくれてるとか言われても“ひねくれてる”は先に言ったもん勝ちだろ。



言葉は僕を苦しめた。