春眠 | 天狗と河童の妖怪漫才

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妖怪芸人「天狗と河童」の会話を覗いてみて下さい。
笑える下ネタ満載……の筈です。

自分の感情ってのもよくわからない。



失恋という言葉を当てはめてみても、よくわからない。



好きなんて感情は子供の頃なら転校生の女子のことは大抵好きになってたからね。



大人になるとそこに性欲とか他にも欲望がぶら下がると思う。



それは女も同じでお互い様なんだろうけど。



色んなことには名前とか意味とか言葉があって、他人と共有する為にはそれが必要なんだと思う。



そこには常識とか道徳とか都合ってのもあって、それがその人の正解だったり、ある人にはそれが正義だったりする。



簡潔な自己紹介が求められる時代だけど、それぞれが抱えているものは多様性のあるもので、それが生き方なんだと思う。



自分の生き方が正しいと信じることで世界から何かが失われることもある。



言葉を上手に当てはめるのは数学のようだけど、その計算から外れた先には誤算がある。



その誤算を切り捨てることが正解ではなくて、誤算ということが答えでもある。



人間の感情というのはよくわからない。



自分の感情さえもよくわからない。



好きという感情も基準がよくわからない。



僕には長年付き合っている女性がいるので、その情報だけなら一途になる。



けれども、僕は結婚していない。



婚活をしている女性からすると35を越えても独身の男は訳あり物件になるそうだ。



バツ1の男よりも査定が低いと。



まぁそれは仕方のない評価だとは思う。



僕としては不幸なようだけど現状としては昔に比べたら幸せだったりもする。



だいぶ削られて細くはなってきたけど、これが誤算の答えなのかと。



嫌われる勇気とか嫌われる努力とか、そういうことでもない。



必要とされてるとか依存してるとか、そういうことでもない。



0と100の景色があるとして、0から100に向かう言葉があるとして、その言葉とは100から0になることを知っている者からするとそれは偽りであり、そこには誤算が含まれている。



そうなったとしても再び0からやり直せばいいのだから100を目指す言葉とは誤算ではないと主張するのならば、それは誤算すらも救済する究極の真実の言葉のようにも聴こえる。



いや、それこそが0を生み出す言葉でもあるのだ。



そもそも0という概念すら初期の数学には無かったと。



音階すらも誤算のような切り捨てによって作られていると。



そのような数字や音の変化によって感情さえも左右されることに対して、何がなんだかさっぱりわからなくなる。



それなりの不幸と刺し違えて手に入れた優しさだからね。



見えなくても、聴こえなくても、触れることもできない優しさがある。



君を形成しているものが優しさに溢れていることで、周りのみんなも優しさに包まれるんだろうね。



僕の臆病な優しさはこの世界とのバランスで、君の無謀な優しさは本能に近い。



優しさに嫉妬するのもおかしいけど、この世界で生きて行くには心配にもなる。



それはお互い様なんだろうけど。



それ捨てずに持ってちゃダメなやつじゃんって。



怒られるよ。



笑われるよ。



取り上げられちゃうよ。



理由はよくわかんないけど。



君の優しさに嫉妬するから、嫉妬するから嫌いっておかしいよね。



そういう言葉だとか、そういう表現は違うってこと知ってるからさ。



だから嫌いになることは生涯ないよ。



好きなもんは好きだからさ。



男だとしても好きだろうね。



人間として好きってことなんだろね。



出逢いってのは不思議なもんだけど、必然とか運命とかあるのかもしれないけど、そういう流れの中で同じように笑ったり泣いたりして、いつかは全員死ぬわけだ。



そういう流れの中で交わり合うことも天文学的な確率で奇跡みたいなもんだ。



言葉は空気の振動したもので、液晶の文字は点の塊だし、肉体もそれらと同じように共鳴するのかもしれない。



春は植物も動物も生命体としてのエネルギーが活発に動き始める季節だからね。



冬眠から目覚めるように、ゆっくりと春を満喫したいものですね。