天才の頭の中3 | 天狗と河童の妖怪漫才

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妖怪芸人「天狗と河童」の会話を覗いてみて下さい。
笑える下ネタ満載……の筈です。

「ほんまや~」



これも違うな。



もう自分の中で正解の声がわからなくなった。



そんなことよりアルチンボルド展についての感想を書かないとね。



イカれた彼女を誘った僕なりの理由も少しだけあるのよ。



彼は画家でありながらその作品というのは現在で言うCMのような広告作品でもあったわけですね。



ざっくり説明すると16世紀の超お金持ちの一家が彼のスポンサーだったわけです。



パトロンみたいなね。



その一家のお金持ちアピールを作品として彼は描くわけですよ。



お金持ちってことをアピールするのは、それだけ軍事力もあるよってことらしいのよ。



つまり、彼の作品はプロパガンダに利用されてたわけでね。



プロパガンダってのはイメージ戦略みたいなことなんかな?



印象操作みたいなことかな?



館内のパネルにプロパガンダって書いてあったからそうなんでしょうね。



我々のような階級には伝わらない言葉ですけどね。



当時のお金持ちアピール、権力アピールってのが世界中の動物を集めたりすることらしいのよ。



誰も見たことのない生き物を知ってたり、所有しているってことはそれだけテリトリーが大きいってことになるわけです。



今はインターネットで見たり出来ますけど、当時は違いますからね。



だからアルチンボルドの作品って当時の貴族でも見たことのない種類の動物とか植物で描かれているわけですね。



それらを巧妙に組み合わせて人間の横顔に寄せているわけです。



インスタの間接アピールの元祖みたいなもんですよ。



うちにはこんな見たことないような動物もたくさん所有してて、それをちゃんと観察して描ける画家がいるって間接的なアピールにもなるわけでね。



でもね、当時は動物の名前とか本当にその生き物が存在するのかを確かめようがないわけですよ。



無知な人からしたら、こんな見たことない生き物を組み合わせるだけなら何でもアリじゃんって誤解される可能性もあったと思うんですね。



だから当時の観賞の楽しみかたと現在は違うわけよ。



現在は完全に答え会わせを楽しむレベルなわけ。



みんな生き物の名前を知ってるからね。



実物との縮尺は変えて描いてはいるけど本質的な部分でのウソを嫌ったことが天才なんだと思うのよね。



いずれ歴史が証明してくれるというかさ。



僕は建設業の職人ですけど、回収工事とか行くと当時の職人さんの仕事が読めるのよ。



ここがダメだったからこうしたんだなとかね。



クソみたいな仕事しやがってとかもあるわけでね。



手順とか苦労だとか、こだわりが手に取るように見えるんですよね。



アルチンボルドの作品を観ても16世紀で考えてることが今とあまり変わらないことがあるわけですね。



ソムリエの顔をソムリエが使う道具だけで描いた作品とか、裁判官の顔を法律書みたいなのだけで描いたりとかね。



自分で制約を作ってその中で表現をするというかさ。



だからアルチンボルドに影響を受けた画家の作品は本家を超えられないわけでね。



横顔の意味とか意図を客は考えるけど、僕はそれは結果論だと思うのよ。



四季っていう4作品の横顔と四大元素って四作品が実は向かい合うようになっているっていうのもさ、それは後から考えたアイディアだと思うのよ。



横顔にすることでネタを考える必要性を半分に排除してるわけよ。



だから二番煎じの画家が自分らしさを出そうと正面から寄せ絵を描いても、それは野暮になってしまうわけ。



花のやつとか誰が見てもわかるようにハードルをあえて下げてるわけですよ。



ボウルに入った野菜が上下逆にすると顔になるやつとか楽勝で描いてるわけ。



真似するのは構わないけど表現としてやる意味はもうないよっていう、そのジャンルの頂きを制覇してる感じなのよ。



たぶんこれは他の分野の芸術でも同じだと思うわけ。



後から生まれた世代はバレないようにパクるしかないというかさ。



リスペクトだとか、オマージュだとか言ってパクるセンスで魅せるしかないと思うのよ。



方法論としてだったら人工知能だって真似ができるわけだからね。



だけどAIが真似できないのは即興的な遊び心みたいなユーモアだと思う。



お金持ちから依頼された作品でも風刺を込めるとか、権力に全ての主導権を握られてない感じがあるのよね。



そこが人間らしさであり、天才なんだと思うんですよ。



何かを伝える為にはどうすればいいのか?と。



絵という武器で権力をアピールしたわけですけどね。



生きることも表現じゃないですか。



みんな何かしらの武器を持ってるわけで、それらの使い方やアイディアが違う仕事や生活をしているわけでね。



その価値の基準として数字が目安になるわけですよ。



イカれた彼女ってのは、そこら辺が醒めたスタンスを取るわけなのよ。



悪い習慣みたいに業界かぶれしちゃってるわけ。



フォロワー数とか、いいねの数が数字としての目安になるわけでね。



業界的にはそういう数字は昔から金で買ってると。



そういう専門用語や専門職があると。



今でも買えると。



でもそれは裏側だと僕は言いたいわけですよ。



展覧会も興行ですから動員数は大事だけど、作品の価値は別にあるわけでね。



500年後の「ほんまや~」を描けているわけですよ。



僕が彼女に望むことは自分の背負ったハンデに対して、それを作品という方法で世界を変えろっていう、ど真ん中のことなんですよね。



それは金で買った数字では無理だと思うから。



彼女の肉体的なハンデというのは、セカンドマイノリティ(僕が勝手に作った言葉だけど)だと思うのよ。



世間からまだ認知されてないわけでね。



国から援助もされないし、医者も理解してくれないわけ。



障害者ではないわけなのよ。



誤解を招くけど、イカれてるのは彼女の性格だからね。



ただ、その肉体的なハンデが起因してる感情論に関してだけは情状酌量の余地はあるんでないかい?と。



世の中の空気ってあるからね。



24時間テレビの募金額が減った事実の方が視聴率が上がったよりも深刻な問題なわけよ。



裏番組で障害者が黄色いTシャツ着て、あんなのは感動ポルノだって24時間テレビを揶揄した結果が数字として募金額が減ったと思うのよ。



恵まれた障害者が声の弱い本当に助けを必要としている障害者の邪魔をしてるわけ。



それはセカンドマイノリティの人達にとっても迷惑なことなのよ。



感動ポルノだって言ってたやつがさ、介護士の数が足りてないとか言うわけよ。



いや、健常者もそこまで人間として立派じゃねえからさ。



植え付けた視点の落とし前を誰がつけんの?って話になるわけよ。



これは感動ポルノなのか?って視点はいらないのよ。



マラソンのゴールした直後のアナウンサーの煽りとかなら無理やり感動させようとしてるのはわかるけどね。



感動ポルノって言ってることすら、もう1周すると利用されてるわけだよ。



はいはい、感動ポルノね、って言う視点や空気や壁を越えるだけの物語や作品がなければ他の弱き者たちが国を変えることが出来ない圧倒的な障害として現れてしまったわけよ。



可哀想アピールじゃなくて本当に可哀想なやつの表現を潰してんのよ。



それでもなんとかしないことには同じ病で医者から見放されて自殺してる人もいるらしいからね。


困った世の中だ。