ともだち救出作戦3 | 天狗と河童の妖怪漫才

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妖怪芸人「天狗と河童」の会話を覗いてみて下さい。
笑える下ネタ満載……の筈です。

俺の中で“ともだち”というものが何なのかわからなくなった。



友達とは同い年なのだから、友達の当時の男友達も俺と価値観なり感覚が近いと思うのだ。



だからこそ違和感を感じたから、話の内容についておかしな部分を論理的に批判してあげたつもりだった。



しかし、友達は俺のその的確な批判が頭にきたらしく、その瞬間から俺をシカトしたのである。



これは完全なる逃げ癖でしかない。



自分というものを保持する為の手段は誰にでもある。



だけど、そんなものは社会に出ると打ち砕かれる。



知り合いの誰もいない土地や組織の中でも生きていける術があるかないかしかない。



そうやって己の価値観というものを更新していくからこそ面白いのである。



友達のやってる行為が許されるのは若さという加護の下でしか成立しない。



これは男友達がいる女はイケてるとかの次元の話ではないのだ。



面白いか面白くないかだけでの話なのだ。



女の値打ちが下がるような話を自分からするのならば、それを笑い飛ばすことで別の意味で女としての値打ちが上がることもあるだろう。



なんというか、友達のは男を知ってるだけで男ってもんを全く理解していない。



こういうやつは男にもいるのだが、異性を武装することで己を保持しているタイプなのだ。



女を紹介するとか、自分が抱いた女の感想を他の男たちの前で喋ることで存在感を示すやつである。



この手の男は独自の世界観が強いので自分に自信のない女からはモテるのだ。



こういう男と友達だというのは他の女に対しては自慢になるのだが、他の男からすると遊ばれてるだけでしかない。



まぁ女も女でそういう話をして盛り上がっているのだろうけど。



ようするに、逆の立場で、女の目線で考えると、こうなる。



自分の彼氏が仲の良い女友達(3人で食事に行くような間柄)から開園3日目のネズミーシーに一緒に行く相手が他にいないからと誘われて、それを許可するようなもんだ。



これは絶対におかしい。


確かにおかしいけれど、面白ければいいのだ。



これは話し方の構成が下手なだけじゃないのか?



それで、なんで俺がシカトされんの?



友達は俺と視線すら合わせなくなった。



シカトされるなんて俺としては小学校以来である。



自分でいうのもおかしいが、人気者だっただけに嫉妬も絡んだシカトだった訳で、それでも子供なんてのは単純だから俺と遊んでた時の方が面白かったとなればまた仲良くなるのだ。



ただ、シカトというのは暴力を振るわない暴力なのだと俺は体感している。



この歳にもなって部屋の中で目の前の俺をシカトすること自体もおかしいのだ。



これは俺に対する暴力なのである。



己を保持する為の思考停止であり、自衛の為の暴力なのだ。



友達は美意識があまりに強すぎるのだ。



俺の彼女は本気で怒ると最後は顔面をグーで殴ってくるので暴力には慣れている。



俺の彼女は怒ると自分の頭の中で考えられる最大限の悪意や男のプライドを潰す言葉を吐いてくる。



俺が嫌がる言葉を選んでそこを徹底的に浴びせてくる。



人間としての最低限のモラルというリミッターを外した悪口というのはとにかく醜い。



こっちも人間だから全てを聞き流すことはできない。



自分の中で大切な何かが消耗していくのを感じる。



こうまでしないと発散できない女が内包する悪意とは本当に恐ろしいものだ。



ただ、どんなに罵られようとそうすることが自己表現なのだと理解はできる。



それでも絶対に許せない言葉もある。



どんなに怒っていても言ってはいけない言葉は理性で制御するものだ。



それすら解除して罵声を浴びせるのだからどうかしている。



ネットの悪口よりも抑揚をつけた喋りで直接言われる方がきつい。



そんな罵声が止まない状況だとしても、怒りに満ちた勢いで俺を罵る言葉を噛んでしまうこともある。



それを「…今、噛んだよね?」と俺は突っ込みを入れてしまう。



悪口を噛むというのは面白いからだ。



すると彼女は瞬間的には笑うが、そこを更なる怒りで感情を抑え込んで怒り狂うのである。



俺の彼女は付き合う前から治療法が確立されてない病気で身体的に症状が表れていた。



当時の俺は自分に自信があったのと、そういうのはあまり気にしない性格なのもあった。



俺の女がどんな女だろうと俺が面白ければ関係ないという考えだった。



原因は不明で心療内科に通っていた時期もあったらしい。



国から難病の指定をされてないこともあり、海外から輸入して1回に6万もする注射を症状を緩和させる治療として頼るしかなかった。



医学的な治療法が確立されてないのだから仕方がない。



しかし、これが俺と付き合って何年かしたらその症状が治ってしまったのである。



日本にその注射を打てる医師はその先生しかいないらしく、この症状の研究に日本では第一人者である医者からは、この症状が治ったという前例がないと驚かれた。



だけど、俺だけは彼女の症状がなぜ完治したのかをわかっていた。



心療内科や医学が先にあるわけではない。



この世界は矛盾に満ちている。



だからこそストレスが溜まる。



こうあるべきだが、そうならない世界で生きることは精神すら蝕まれる。



人間が内包する悪意や憎しみや嫉妬や憎悪といった感情を、己の脳内細胞を極限まで稼働させた表情力で全てを吐き出し、怒りという感情を暴力として動物的な本能のままに俺に向けて発散したからだ。



最終的には俺が過度のストレスで風邪をこじらせて入院した。




彼女は震災後に猫を連れて同棲していたアパートを出て行った。



しばらくすると症状が再発した。



主治医からはこの症状が治ったのも初めてのことだったが、再発するということも初めてだと興味深く驚かれたとか…。



これは恋愛だから成立するが、結婚はまた話が違ってくる。



こんなもん俺の精神が保てない。



それでも彼女は同僚の男でも辞めていく職場で仕事を続けてそれなりの地位になった。



精神的な自立というのは正解がわからないが、経済的な自立という点では俺の重荷は軽くなった。



俺は彼女の望むように会社を2回も辞めて金も友人も失った。



人生というモノサシで考えれば俺の選択は間違いなのだが、当時の彼女にはそれが理解できないので望むように飛び降りてやった。



綺麗事かもしれないが、不治の病というものも世界の誰かが犠牲になれば治る可能性があるということだ。



だからこそ綺麗事という言葉に対して俺はそれこそ綺麗事じゃないのか?と言えるのだ。



愛というものの正解はわからない。



女の幸せってやつもわからない。



結果だけ見れば、俺は日曜日しか休みもなく低賃金で何の福利厚生も保障もない肉体労働を続けている。



彼女はまともな組織的な会社でそれなりの社会的な地位で働いている。



年下なのに俺よりも収入も休みもある。



女という生き物は本当にずる賢くて逞しい。



まぁ本人の努力と根性は認めるけど。



ようするに社会性や経済的な安定に伴って精神的な安定が引っ張られる形で大人の女になればいいと思う。



そんな彼女とも俺はおかしい部分には論理的に指摘をしてきたのだ。



彼女が職場で喋って損をすることや、男社会での立ち回り方については何時間かかろうと喋り倒してきた。



今の時代はSNS等のネット社会でもあるから職場で誤解されただけでも彼女が積み上げてきたものを失うことになるからだ。



俺に対しては悪魔なのだが職場では可愛い猫を被っているらしく、それならそれでどう立ち回るかで状況が変化することになる。



女という単純な武器を使わずに先輩の男たちが辞めて行った結果、今の地位まで登り詰めたことになる。



上司や他の社員を組織から抹殺できるだけのカードも握っている。



ひたすらバカみたいに経費も使わず自腹でクソ真面目に仕事をしてきたから会社や同僚に弱みを握られることもない。



なにより、職場の人たちは彼女の本性を一切知らないのである。



ここまでよく猫を被ってきたもんだと尊敬すらする。



そのストレスを全部、俺が受け止めてきたおかげなのだから…。



職場のしょうもない男と付き合えば、別れたとしたら職場にも居づらくなるし、弱みが増えることにもなる。



女の値打ちが下がることはするべきじゃない。



世間の嫁さんたちの苦労がよくわかる。



離婚して社会復帰してもそれなりの収入のある職場には戻れないのだ。



旦那を自己犠牲の精神で支えているのだ。



しかし、これが、男だとどうにもならないのだ。



稼げない男はどうにもならないのだ。



というか、俺の生き方は資本主義ではないのだ。



ロマンだけで人は幸せにはなれないのだ。



それだけネガティブな言葉を10年以上も浴びていれば男の自信やプライドってもんが磨り減っていく。



その地獄絵図のような人生でも1つだけ光が差すことがある。



笑いである。



ユーモアである。



面白いか面白くないかだけを考えるのである。



どうしたら面白くなるかだけを考えるのである。



そこに正解があるからなのだ。



彼女が笑っていれば世界は明るいのだ。



例え包丁で追い掛け回されようとも、その切っ先が喉元に突き刺さる寸前でも究極に面白いことが言えるのならば少しだけ命は助かるのだ。



面白くないことに対しては何時間でも彼女が納得するまでどんな理屈だろうと“まわりのみんな”という集団的な圧力だろうと俺は喋り続けてきたのだ。



そこだけは何があろうと譲らなかった。



面白くないやつの言うことには優しさなど元からないのだ。



それでも男や女として物事がカウントされることがおかしい。



友達の数や付き合った人数、結婚ということだけで偉そうに人生を語るなと。



そんなどうでもいい数なんかよりも、愛想笑いじゃなく、腹の底から笑った数で勝負しろと。



納得がいかないなら喧嘩をすればいい。



言いたいことがあるなら言えばいい。



俺の中での正解は、面白いか面白くないかだけだ。



そんな俺に対して友達はシカトするという…ね。



こんなのは卑怯でしかない。



反則じゃないか?



この程度の会話で弁解するでもなくシカトでやり過ごそうとするのは気持ちが悪い。



てめえで喋った話で過去の男友達を守ることや話のオチもないのなら“ともだち”なんて初めから語るなと。



その翌日に友達からシカトしたことを反省したメールが送られてきたのだが、これはメールなんて文章ごときで理解できることでは到底ないのと、ムカついたので返信をすることはなかった。



それでそのまま音信不通の着信拒否になったのだろう。



だけど、俺は間違ってないのだ。



ここからガラケーの底力と、1度だけ繋がった電話で俺は喋りに喋って友達と再び再会することになったのである。



続く